2467「青空ひろば」2021.9.26 自分で自分を自分するから

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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最近の記事を紹介します。

438 2021.09.09~441 2021.09.12

『無相の相を相として』(白隠禅師坐禅和讃より)

(解説)

『無相』とは、<姿、形がないこと>です。

自分のイノチを護ろうとして、周囲に築いた囲いがホドケると、自分という固まりがなくなります。

自分という固まりが無くなると、個性というものがなくなり、同時に、その人特有の行動のパターン(こういう場合には、必ずこういう行動をとるというクセのようなもの)がなくなります。

そうなったら、行動に自在性が出てくるわけですが、不安定性も感じるようになります。

星の一つも見えない暗黒の宇宙空間に放り出されて、さあ、東西南北、上下、どっちに行ってもいいんですよと言われても、もはやどの方向にも目途(めど)になるものがないので、どう行動すればいいのか分かりませんね。そんな感じの不安定を感じるのです。

もはや、既知のものはなく、刻々、未知との出会いをすることになります。既知ではないので、この場合はこう対処すればいいという行動マニュアルはナイのです。

このように、しばらくの間は途方に暮れているのですが、不思議なことには、刻々の出会い、課題に直面して、『無相』で佇(たたず)んでいると、これまでの自分にはとても思い付けそうもない、信じられないような素晴らしいアイデアが思い浮かぶようになり、事態の解決が図れるようになるのです。

これは、囲いが外れると、宇宙全体が私となり、宇宙にあるあらゆる能力や人材やモノを身内として利用出来るようになるからです。

しかし、そうは言っても、その人は、それらの無数の能力などをすべて所有したというわけではないのです。

そうではなく、いまや『無相』の位置にいるのですから、なにも所有しているわけではないのです。

それでも、必要に応じて、どのような能力であろうと、引き出して使用することが出来る(これが『無相の相』)ようになるのです。

つまり、<所有はできないが、使用はできる>というわけです。

オレのものだと所有してしまうと、それがどんなに広い領域の囲い込みであろうと、さらなるイノチの可能性への前進を阻止するものとなってしまうのです。

435 2021.09.06~437 2021.09.08

(総務部長だった時、高3担任団の依頼を受けて、「学年文集」に書いた「マイ ライフ ワーク」という文章です)                                   

私のライフワークは鎌倉時代の道元禅師の主著「正法眼蔵」の研究です。十九歳から読み始めて、もう三十八年間も読み続けているということになります。

この書は難解であると知られていて、『世界一難解な哲学書だ』と評した哲学者もいました。

その難解さがどんな種類のものなのか、眼蔵中の有名な(比較的わかりやすい)一節を紹介しますので、とりあえず読んでみて、その意味を考えてみてください。

(1)仏道をならふといふは、自己をならふ也。

(2)自己をならふといふは、自己をわするゝなり。

(3)自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。

(4)万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己(たこ)の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり( 以上 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)第1章現成公案(げんじょうこうあん)より)。

いかがですか。なかなか難しいでしょう。とりあえず、ひと通りの解釈だけはやっておきます。

(1)の『仏道』とは、『仏となることをゴールとして歩む道』のことです。

しかし、仏道を学ぶとは、自分が仏になることを学ぶ(まねをする)というのではなく、自分が本当の自分になることを学ぶことなんだ。自分が本当の自分となることこそが、実は仏となるということなんだとおっしゃっているのです。

(2)では、自分が本当の自分になりきれるのは、どういう時なのかというと、その自分というものが忘れられている時なんだよとおっしゃるのです。

つまり、今・ココで出会った課題に全力で取り組んで、我(自分)を忘れて没頭しているような場合、その人の特性が最高に発揮され輝いている(本当の自分が現れている)と、おっしゃるのです。

いのちというものは不思議な事には、どの瞬間も『今・ココ』のうえにあります。

ところが、人間には頭というものがあるものだから、過去や未来や他の場所に意識を飛ばしがちで、なかなか、『今・ココ』という、いのちの本来の落ち着き場所におさまりません。

そういう中途半端な、へっぴり腰の課題への取り組みでは、自分の本当の能力をフルに発揮出来ないのです。

道元禅師は、いのちは常に今・ココの当事者であるとして、客観や傍観に対して、『当観』という言葉を造語しておられます。

(3)自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。

そのように、『今とココ』の課題から逃げ出すことをやめ、本腰を入れて取り組むようになったとき、その人にはどういうことが起こってくるかを、この文章で説明しておられます。ここはやや神秘的で、体験で自覚するしかないところです。

我を忘れて課題に取り組んでいるとき、自分が忘れられたということは、その人のエゴ性が取り除かれたという事、自他を区切っていた仕切りが取り除かれたということなのです。

そうすると世界全体が一体となって、その人の課題解決のために、全面的に協力してくれるようになります。

ここで、『万法』の『法』とは『存在』という意味で、『万法』は『世界』とでも訳しておけばいいでしょう。『証』とは、『はっきりした、具体的な形として表現する』という意味です。

つまり、我を忘れて(エゴ性を忘れて)、その目下の課題に全力で取り組んでゆけば、世界中のモノゴトが寄ってたかって、その課題の解決成就を具体的な形として表現すべく協力してくれることになるとおっしゃっているのです(君たちの受験という課題でもそうなのですよ)。本気の取り組みは、世界をひん曲げてしまうほどすごいものなのです。

(3)自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。

そのように、『今とココ』の課題から逃げ出すことをやめ、本腰を入れて取り組むようになったとき、その人にはどういうことが起こってくるかを、この文章で説明しておられます。ここはやや神秘的で、体験で自覚するしかないところです。

我を忘れて課題に取り組んでいるとき、自分が忘れられたということは、その人のエゴ性が取り除かれたという事、自他を区切っていた仕切りが取り除かれたということなのです。

そうすると世界全体が一体となって、その人の課題解決のために、全面的に協力してくれるようになります。

ここで、『万法』の『法』とは『存在』という意味で、『万法』は『世界』とでも訳しておけばいいでしょう。『証』とは、『はっきりした、具体的な形として表現する』という意味です。

つまり、我を忘れて(エゴ性を忘れて)、その目下の課題に全力で取り組んでゆけば、世界中のモノゴトが寄ってたかって、その課題の解決成就を具体的な形として表現すべく協力してくれることになるとおっしゃっているのです(君たちの受験という課題でもそうなのですよ)。本気の取り組みは、世界をひん曲げてしまうほどすごいものなのです。(次回に続く)

434 2021.09.05

(総務部長であった時、学年は忘れましたが、学年通信に書いた「エイジング・マネー」というタイトルの文章です)

冬休みに『エンデの遺言』(NHK出版)という本を読みました。面白かったので紹介します。

エンデとは、ミヒャル・エンデのことで、『はてしない物語』(映画『ネバー エンディング ストーリー』の原作)、『モモ』(少女モモが、時間泥棒とたたかう話)などで有名な作家ですね。

エンデは晩年、お金の研究をされていたということです。といっても、お金を殖やす研究ではなく、お金の制度の研究です。

自然界のモノは例外なく、生み出されたあとやがて老化して消滅するという過程をたどります。それが自然界の基本法則です。

ところが、お金は自然界の法則に従いません。100円はいくら時間がたっても老化して価値が減少せず、100円のままです。おまけに、利子というものがあって、お金が新たに生み出されて増殖したりします。

これも奇妙です。というのは、私たちはこの世界に生まれてきましたが、これは、お母さんが食物を体内に取り入れて、それを解体して、構成し直して体を作り、生まれてきたのです。ところが、お金はそうでなく、利子という形で素材なしに、無から生み出されます。

つまり、お金は老化しない永遠のモノで、無から生み出し、生み出されるモノなのですから、つまり、お金は『神』なんだということになりそうです。ということは、今の時代は、お金を神としている時代なんだという事になりそうです。

私たちは、自然界のなかで生きているのですから、私たちが作り出す制度も自然の流れに逆らわない形のものでなくてはなりませんね。

だから、エンデさんは、お金も老化するべきだといいます。といわれても、具体的にはどういうことなのか、イメージがわいてきませんが、実はそんな老化するお金の制度をもった時代が古代エジプトにあったのだそうです。

その時代は、穀物(これは自然物ですね)本位制で、陶片に、例えば『○○年度の小麦50kg』という風に刻んであるのです。この陶片を、国の倉庫に持っていけば、いつでも○○年度の小麦と交換してくれるのですから、その貨幣の価値は保証されています。

ですが、小麦は自然物ですから、年とともに、味も悪くなり、カビが生えたりしますから、価値が減少します。ですから、お金の価値も時とともに減少するのです。

そうすると、お金を貯め込むという事に意味がなくなります。じっと抱え込んでいても、どんどん値打ちが減っていくのですから、誰もお金を貯め込もうとしなくなります。出来るだけ早く、モノに変えようとします。それで、お金の停滞がなくなり、流通がよくなります。

エンデさんによると、この老化するお金の制度をとっていた時代はとても栄えたそうで、現在エジプトに残っている大建造物の多くはこの時代に建てられたのだそうです。

『エンデの遺言』は以上のような内容だったのですが、私は理系の人間で、経済のことを勉強したことがなかったので、その内容の判断は出来ません。ですが、今まで知らなかった新しい観点から、モノゴトが見られるようになりました。目からウロコのいい勉強をさせてもらいました。

431 2021.09.02 ~433 2021.09.04

(総務部長であった時、中学3年の学年通信に書いた「眼横鼻直(がんのう びちょく)」というタイトルの文章です)

正月休みを利用して、禅でよく使われる用語ですが、分かったようで分からない「眼横鼻直」という言葉の意味を考えてみることにしました。

鎌倉時代の道元禅師は、中国の宋の国に留学して帰ってきたとき、その第一声で次のように語っておられます。

「私は宋に行って、結局「眼横鼻直」という事に気づいて、人に騙されるという事がなくなった。そこで、空手(何も持たずに)で、身一つで、帰ってきただけだ。」

さて、道元禅師は何を悟られたのか、ひとつ正月に考えてやろうと思ったのです。

「眼横鼻直」というのは、眼は横に、鼻はタテに付いているということで、これは当たり前のことですね。そんな当たり前の事が悟りなんでしょうか。よく分かりません。

そこで、眼が横に、鼻がタテに付いていなかったらどうなるんだろう、と考えてみました。

たとえば、鼻が横向きに付いていたとします。雨の日に困るでしょうね。息を吸い込むときに、水が入ってむせてしまうでしょうから。ですから、鼻はタテに付いていて、鼻の穴は下を向いているのですね。うまく出来ている!はじめて気がつきました。  

眼がタテに付いていたらどうでしょう。視野がとても狭くなるし、立体視が出来ません。人間は平面上を移動する動物ですから、やはり眼は横に付いていなければならないのです。

こんな風に考えると、眼が横に、鼻がタテに付いていることは、何でもない、当たり前の事のようでいて、実にうまいセッティングなんですね。こうでしかあり得ないという、ピタリの位置に、それぞれの器官が置かれています。

ここまで考えてきて、「当たり前」という言葉が気になりだしたので、岩波古語辞典(愛用しています。この辞典は大野晋先生の労作で、語源なども調べてあって読んでいて楽しい辞典です)で調べてみました。

すると、「当たり前」は「当たりへ」で、弓の的の中心に矢がピタリと当たることを、「あたりまえ」と言ったのだそうです。

つまり、回り道しないで、本来の位置にピタリと納まることが「当たり前」、また、それぞれが一番ふさわしい位置にピタッと納まっているのが「眼横鼻直」なんですから、

「眼横鼻直」とは、「当たり前」のことだということで、やっぱりよかったのですね(もっとも、その意味は深化しましたが)。

道元禅師は坐禅されましたが、坐禅していて、姿勢や呼吸をいろいろ工夫していると、ある時、「これだ!」となります。

どんな時かというと、手も、足も、背の筋肉も、顔の筋肉も、心も…、あらゆる器官が納まり処にピタッとおさまって、まったく違和感がなくなって、まるで身心が無くなったかのように感じる時です。

これが「眼横鼻直」なんですね。道元禅師はこれをまた、「身心脱落(しんしん だつらく)」とも言っておられます。

ところが、道元禅師はまた、「脱落身心(だつらく しんしん)」とも言っておられて、これは完全リラックス(脱落)したままで、身心がダイナミックに動いている姿をいいます。

当たり前に動いているのです。例えば、ヒジは外側には曲がらないという制約(ルール)がありますが、そのルールを破ることなく、それに従って動くのですが、ゴールという目標に向かって、こうでしかあり得ないという体の軌道を、ピタッ、ピタッと決めて動いていきます。

中国の唐の時代の法眼(ほうげん)禅師という方が、次のような問題を出されました。「世界はこんなにも広いのに、どうして鐘が鳴ったら禅堂に行って坐禅しなければならないのか。」

世界はこんなにも広く、自由なのに、どうしてチャイムが鳴ったら、教室に入って勉強しなければならないのでしょう。中3にもなったら、こんなことも考えるようになるでしょうね。

ルールのなかで、窮屈そうな制約のなかで、当たり前の行動をピタッ、ピタッとこうでしかあり得ないという軌道で決めているとき、もう窮屈さは感じません。むしろ、その一瞬、一瞬に伸び伸びとした「広がり」を感じます。もう制約もルールもまったく念頭になくなって「世界」すらありません。こんな境地を道元禅師は「脱落 脱落(だつらく  だつらく)」とおっしゃっています。

もちろん、こんな境地にはなかなかなれませんが、学習の時間は勉強して、自由時間には友達と遊ぶ。当たり前の事を当たり前にやっていて、特別な努力をしているように見えないのに、不思議に成果が上がっているというような生徒をよく観察すると、自然と、この「脱落 脱落」が出来ていますね(その瞬間、瞬間にピタッと納まってやるべき事が素直に出来ている)。

428 2021.08.30~430 2021.09.01

(総務部長であった時、高2の学年通信に書いた「あゆむ」というタイトルの文章です)

『歩く』という身体の行為を『人生の歩み』と絡めて考察してみることにしましょう。

歩く時は、右足・左足、交互に大地を踏みしめて前進します。右足が大地に接している時、左足はありません(意識していないということ)。次に左足が大地に達した時、もう右足はどこにもなくて、全体重が、この左足の一点にかかっています。これが正常な歩み方です。

人生もその通りです。あるのは、<今・ココ>の一点のみで、過去はもう過ぎ去ってナイから過去なのだし、未来は未だ来なくてナイから未来なのです。

ですから、本当にアルのは、<今・ココ>の一点のみです。その一点に我がイノチの全体重をかけて、重心をその上にしっかり置いて進んでいくからこそ、無理、無駄のない、よい人生の歩みができるのです。

いつまでも、頭の中に過去を留めて固着している人は、イノチの全体重の重心が後ろに傾いて仰向けにひっくり返ってしまいます。未来の夢に固着する人は、足下がお留守になって、前のめりに倒れてしまいます。

<今・ココ>の一点の鉛直線上に、自分のイノチの重心をしっかり保って、しかもどの<今・ココ>の一点にも固着しないというあり方ができた時、人は最高度の前進を遂げることができるのです。

では、未来に目標を持ち、夢を描くのは、いけないことなのでしょうか。そんなことはありません。西鉄久留米駅から附設高校に行くという目標を立てて歩き始めるとします。

その間、いろんな物事を見聞しながら、ふと気づくといつの間にか附設についていた、という経験があるでしょう。

このように、ある目標をたてると、歩み続けさえしていたら、その目標を忘れていたとしても、必ず目標にたどり着く、そのようにイノチはできているのです。

たとえば、東大に合格するという目標を持った人がいて、その東大という未来の夢に固着して、<今・ココ>の、足下の学習がおろそかになってしまっている人は合格できません。

東大に合格できるひとは、もう東大合格という目標さえ、すっかり忘れてしまうほど、<今・ココ>の勉強に没頭できる人です。

大学時代に和田重正という方と出会って、大きな影響を受けました。和田先生は小田原で『はじめ塾』という塾をやっておられましたが、この塾は現在あるような進学塾ではなく、生徒たちと生活をともにして、その中から学んでいくという生活塾でした。

先生は高校生の頃、英語がまったく出来ませんでした。英単語が覚えられなかったからです。

なぜ覚えられないのかというと、まず始めの単語を覚えて、次の単語を覚える作業に移ると、前の単語を忘れるのではないかと心配でならないのです。ですから、今の単語に集中できない。

これは、過去に意識が固着して<今・ココ>の一点にイノチの全体重をかけられない実例ですね。それで、単語を覚えるのに、莫大な時間を費やして、しかも、うまく覚えられないという結果になっていたのです。

そんな高校生時代のある日、道を歩いていて樹から葉がハラリと落ちるの見られたのです。その時、『ああ、このように忘れたらいいんだ』という気付きがあったのです。

そして、ひとつ単語を覚えた後、『よし、忘れた』とゴミ箱に放り込むのをイメージして、次の単語に取り組むようにしたのです。

そうすると、忘れたはずの単語が見事に記憶されているという事に気づかれました。それから、英語の成績がどんどん良くなって、おまけにその『忘れる』技術が他教科にも応用出来ることがわかり、ついに東大に合格されたのでした。