2556「青空ひろば」2021.12.24 自分で自分を自分するから

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 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。

525 2021.12.10 ~ 537 2021.12.22

『今・ココ』の勉強にピッタリの禅の公案があるので紹介しておきましょう。碧巌録第53則の馬大師野鴨子(ばだいし やおうず」)という公案です。

 <第1幕>

馬祖禅師は弟子の百丈と草原を歩いていました。すると、野鴨(のがも)が驚いて、バタバタバタと飛び立ちました。

それを見て馬祖が百丈にたずねました。「これは何だ」

百丈は答えました。「野鴨です」

さらに馬祖がたずねました。「どこに行ったのか」

百丈は答えました。「飛んでいってしまいました」

すると、馬祖は百丈の鼻をつまんで、グイッとひねりました。

百丈は「イテテテッ」と悲鳴をあげました。

馬祖は言いました。「飛び去るもんか」

(解説)百丈の「飛んでいってしまいました」という解答が悪いわけじゃないのです。いのちは刻々流れて行き、決して留まることはないという、『いのちの流動性』については、百丈は分かっているのです。

しかし、百丈はまだ『いのちの不動性』については盲目であったのです。だから、馬祖はそのことを教えようとしました。

いのちを「転がるボールの例え」で説明してみましょう。

一つのボールが床の上を転がって行きます。このボールがあなたや私の『いのちの本体』の例えです。

このボールは絶えず前進して、決して留まることがありません。これが『いのちの流動性』の例えです。

このいのちのボールは常に床と一点だけで接しています。そして、この床との接点は固定していなくて、次々、変わってゆきます。

この床との接点が、私たちが体験する『今・ココ』です。

さて、その接点から床に垂直に直線を引くと、その線は、必ず球の中心を通ります。この球の中心は『いのちの意識の座』を例えています。私たちの『意識の中心』は常に、『今・ココ』の上にあって、その位置から外れず、動きません。いのちがいかに流れ流れても、いかに「飛んでいって」しまっても、意識の座は、刻々の『今・ココ』の上で不動なのです(「飛び去るもんか」)。これが『いのちの不動性』です。

馬祖は、百丈の鼻をつまんで、グイッとひねることによって、流れの中にいながら、常に不動であるところの『今・ココ』というものを体験させようとしたのです。そして、その試みはまんまと成功しました。この「イテテテッ」の瞬間に、百丈は不動の『今・ココ』を見出すことが出来ました。

<第2幕>

次の日は、馬祖の説法がある日で、弟子達が法堂に立ち並んで、馬祖の入場を待っていました。

師匠は説法の前に、まず仏様を礼拝することになっていて、演壇には礼拝用の茣蓙(ござ)が敷いてあります。

馬祖が入場してくると、百丈が弟子の列の中から出てきて、その茣蓙を、巻き上げてしまいました。

すると、馬祖は説法をしないで、そのまま自室に帰ってしまいました。そして、百丈を呼びました。

「わしは、まだ説法をせぬのに、お前はなぜ茣蓙を巻き上げたのか」

すると、百丈は言いました。「私は昨日、和尚様に鼻をひねられて痛かったです」

それに対して馬祖はたずねました。「君は昨日、どんなところに心を留めたのか」。

それに対して、百丈は「今日は鼻は痛くありません」と答えました。馬祖は百丈を褒めて言います。「君は、深く『今日のこと』を知ったなあ」

(解説)

『馬祖が入場してくると、百丈が弟子の列の中から出てきて、その茣蓙を巻き上げた』

これは分かりやすいですね。『私はもう流れでありながら不動であるといういのちの本質を悟ったので、師の説法は必要ないですよ』というジェスチャーですね。

「私は昨日、和尚様に鼻をひねられて痛かったです」

これは、『私はその時に悟ったのですよ』と言いたいわけですね。

「君は昨日、どんなところに心を留めたのか」

つまり、『君は昨日どんなことを悟ったのか』と聞いているのですが、その裏には、『君はその悟ったということに心を留めていないか、どんなにありがたい悟りであっても、そのそこ(もうすでにそれは流れさって過去なのに)に心を留めてしまったら、君は流れるいのちになりきれていない、刻々の『今・ココ』になりきれていないということになる』わけですから、もし、昨日はこんな体験をして、こんなことを悟りましたなどと得々と語りはじめたら、ぶっ叩いてやろうと、待ち構えているのです。

百丈は「今日は鼻は痛くありません」と答えました。

これは、『昨日は<イテテテッと悟った>『今・ココ』であり、今日は、<痛くない>という『今・ココ』にいます。どの『今・ココ』にもいのちの流動性を阻害されていませんし、常に刻々の『今・ココ』に不動なのです』と、表明しているのです。

馬祖は百丈を褒めて言います。「君は、深く『今日のこと』を知ったなあ」

この馬祖の『今日のこと』とは、つまり、私が言う『今・ココ』の秘密のことです。いのちの動・不動性を統合する『今・ココ』をよく理解したねと百丈の悟りを認めているのです。

<第3幕>

百丈は馬祖を礼拝して自室に帰り、ワンワン泣いていました(感激の涙です)。道友がそれに気づいてやってきて「どうしたんだ」とたずねます。百丈は「師匠に聞いてくれ」と言います。

そこで、この友は和尚のところに行って、「百丈が泣いています。どうして泣いているんですか」とたずねます。馬祖は「本人に尋ねよ」と言います。

友が百丈のもとに戻ってくると、百丈は大笑いしていました(解放の喜びです)。

友はたずねます。「君はさっきは泣いていたのに、今は大笑いしている、なぜなんだ」

百丈は答えます。「さっきは泣いていた。今は笑っているんだよ」

(解説)

ここのところも第2幕と同様ですね。

「さっきは泣いていた。今は笑っているんだよ」

これも、「昨日は痛かった、今日は痛くない」というのとおなじです。

要は、泣いている『今・ココ』、笑っている『今・ココ』しかないんです。それが分かれば、何も引きずることがないから、サバサバ、イキイキ、今とココで躍動して生きることができるのです。

木枯らしに身を縮め、春風に身を伸ばす ただ、それだけの事。

<第4幕>

百丈は、この後、馬祖のもとを離れ、武者修行の旅に出て、十年後、再び馬祖のもとに帰ってきました。

馬祖が自室で坐禅しているところに、百丈がやってきました。それを見て馬祖は払子(ほっす)を手に取って持ち上げました。

百丈はたずねます。「この用に<即する>のですか、この用に<離する>のですか」

馬祖は払子をもとの位置にもどします。しばらくして今度は馬祖がたずねます。「君は以後、どのように人のために尽くすつもりか」

百丈は馬祖の払子を持ち上げ、もとの位置に戻します。

すると、馬祖は、「カーッ」と、一喝します。その途端、百丈は大悟しました。

後年、百丈は弟子の黄檗にこの経験を語って、「わしはその時から三日間耳聾(耳が聞こえなくなって)になってしまったよ」と言ったそうです。

それを聞いて、黄檗は驚いて舌を出したそうです。

(解説)

「この用に<即する>のですか、この用に<離する>のですか」というのは、十年前の『今・ココ』の悟りの発展です。分析が精緻になっているというところはありますが、その路線を踏み外せないでいるという行き詰まりも感じられます。 

いのちのボールの例えにもどって、ボールと床との接点が、私たちが体験する『今・ココ』でしたね。いのちが正常に流れている時は、いのちのボールの全体重が、その『今・ココ』の接点にかかっています。これが、<即する>です。『用』とは、動作・作用のことで、この場合は、払子を取り上げて立てるという動作の刻々の『今・ココ』に、馬祖のいのちの全体重がかかって動作している。決してお留守になっていないということです。

そして、『用に<離する>』とは、どの『今・ココ』にも停滞しない、意識がこびり付いてしまわないということです。いのちは本来流れですからね。先ほどのボールの例で言うと、ボールの中心(意識の座)は、『今・ココ』と同一化していませんね。常に『今・ココ』と意識のセンターは等距離を保って離れています。だから、今の『今・ココ』から次の『今・ココ』へよどみなく移動できるのです。

百丈さんのこの『即して離する』いのちの体得という悟りは素晴らしいものなのですが、宗教家としては、まだ至らぬところがあるのです。

百丈さんの悟りは、スポーツ界、昔なら武道の世界、その他各界の一流人のためには、大変役に立つのです。この教えによって、成果を上げる人が続出するでしょう。つまり、百丈さんの『今・ココ』の悟りは、効果的に、効率的に行動する秘訣なのです。各界の一流の方は、この秘訣を手に入れて成功するでしょう。

しかし、『<即する>ことも、<離する>ことも』十分には出来ない普通の人にはどう指導するのでしょうか。

以前、禅の会で、『今・ココ』の話をしたとき、「先生の『今・ココ』の話を聞いて、『今・ココ』になりきって、そこから外れないように生きようと努力するとシンドクなってしまうんですけれど」とおっしゃった方がいました。そういう方がきっと多いと思うんです。私なんかもその口です。

ですから、百丈さんは宗教家としては、まだダメで、もう一段アップしなければならないと師匠の馬祖は見抜いたのです。それで、一喝となりました。

さあ、ここからの話は途方もなくなります。だから、禅の会で少しこの話をしたことがあるのですが、大半の方は『さっぱり分からん』という困った顔をされていました。

これまで、『今・ココ』にいのちの全部の体重をかけて、しかも、どの『今・ココ』にも執着しないという生き方を説明しました。

しかし、本当は『今・ココ』を見た人はいないし、聞いた人も、触れた人もいません。

どうしてかと言いますと、『今・ココ』を体験したと思った瞬間、もう次の『今・ココ』に移っています。目で見たとしても、対象物から出た光線が、目に入り、神経を経由して、頭脳に到り、モノとして認識されるまでには、時間がかかります。わずか数秒のことかも知れないけれど、『今・ココ』の光景として認識した時には、その光景はすでに過去に流れ去ったもの、もうナイモノなんです。ですから、本当の『今・ココ』を捉えた人は誰もいません。

ですから、私たちは、『今・ココ』を決してみたことがないし、これからの永久に見ることはありません。また、もちろんのこと、『今・ココ』を聞くこともできないのです。つまり、本当は私たちは、何も見ていないのだし、何も聞いていないし、何も行動していないのです。

でも、気が付いてみると、なんとなくつじつまがあった行動が出来ているというのも事実で、これは『心さん』が、ちゃんと必要に応じて、つじつまを合わせてくれているのです。

ここのところを、般若心経では、観音さまの境地として、『不得、不智』とあります。自分ではなにも手にしている必要はないし(才能も集中力もお金や人脈も)、なにも知っておく必要もないのです(知識も、経験も)。そんなものは、全部『心さん』のポケットに入っているんだから、「そこんとこ、よろしく」ということで、手元に道具は一切不要です。

そうなってはじめて、エリートだけでなく、万人のために手を差し伸べることが出来るのです。

白隠さんは、『三日どころか、それから永遠に耳が聾するんだ、目が盲するんだ』とおっしゃっています。

また、園梧禅師は、『百丈のマネをしたら、天下の師となれる。しかし、馬祖のマネをしたら、自救不了(じぐふりょう、自分も救えない)だ』とおしゃっています。つまり、百丈のように『今・ココ』の悟りを説けば、天下の一流人に賛同され、彼らから素晴らしい師として尊敬されるというのです。しかし、『不得、不智』で、『何も分からんチン』になった馬祖は、『自救不了』だというのです。

では、『自救不了』の典型は誰かと言うと、イエス様ですね。自分さえ救えなかった人ですね。こういう生き方が馬祖なら出来るわけです。百丈の教えに従うと、効率的な成功道を歩めます。馬祖に従うと、効率も、自他の区別もない、目も耳も届かない闇の道を歩くことになります。それが、本当の宗教家の生き方ですね。

過去なし、未来なし、世界なし

今なし、ココなし、自分なし、

さっぱり分からん、闇の道

何や知らんが、つじつまが合う

万事おさまる

万事ととのう

(完)