「もし兄弟たちがあなたの一部であり、その彼らを
あなたが自分の剥奪感のゆえに責めるなら、
あなたは自分自身を責めることになる」
誰もすべての人を兄弟とは思えないかも
知れませんね。
誰をも非難しないどころか、一日の中で
何度他の人を裁いていることでしょう。
今朝犬の散歩中、街路にウオッカかなんかの瓶のかけらがいっぱいで、
数メートル四方に飛び散っていました。
靴を履いた人なら大丈夫ですが、素足の犬なんかは
傷をしそうでしたので、大きなかけらを犬の
糞を入れる袋に入れました。
瓶を誤って落としたのでしたら、あんまり飛び散る
ようなことはないのですから、多分何か相当
怒って瓶を思いきり街路にたたきつけたのでしょう。
その方の思いが飛び散ったガラスのかけらに
こもっているかのようでした。
少し後で犬と家に戻りました。
家内に報告です。
「歩道にすごくガラスが飛び散っていたんだよ。」
「エー!! 悪い人ねえ。」
「悪いかどうかわからんけど、なんか腹が立ったんだろうね。
ものすごく飛び散っていた。・・」
そのあと朝のコーヒーをいただいたのですが、
どうしても気になって塵取りとほうきをもって
細かくてみえないほどのガラスを集めに行きました。
掃いているときに、その方の気持ちがこちらに届いて
涙がこぼれてきました。
何十年も朝の街路を歩きましたが、初めての
出来事で、まさに自分の心が乱れていることを
見せられた感じがしました。
まだすべてを兄弟とみていない。
見るものはすべて自分の心の影だとしたら、
なんと激しい心を持っているんだろう。
反省の朝でした。
「自己非難は自我と同一化することであり、
他人を非難することと同じく自我による防衛」
「もし兄弟たちがあなたの一部であり、その彼らを
あなたが自分の剥奪感のゆえに責めるなら、
あなたは自分自身を責めることになる」