人生の真の意義は、その長さにはなくて、実にその深さにあるといってよいでしょう。ではそのように人生を深く生きるとは、そもそも如何なることをいうのでしょうか。畢竟するにそれは、真実に徹して生きることの深さをいう他ないでしょう。もし真実に徹して生きることが、真にその深さを得たならば、たとえ二十代の若さで亡くなったとしても、必ずしもこれを短しとはしないでしょう。孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」とさえ言われています。これ人生の真意義が、その時間的長さにはなくて、深さに存することを述べた最も典型的な言葉といってよいでしょう。
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「人は死してどこへ行くのであろうか」この問題は大よそ生ある人間の、いつかは必ず当面する問題といってよいでしょう。しかも人は死して後いかなる処へ行き、また死後如何になりゆくかという問題は、被造物としてのわれわれ人間にとっていわゆる実証的には永遠に知ることのできない最難の問題というべきかと思うのです。すでに生前についても、何ら知ることのないわれわれには、同様に死後についてもまだ十分には知り得ないのであって、その間もし言いうることがあるとしたら、われわれは死によって、生前の世界に還るということでありましょう。そして生前の世界に還るとは、すなわち宇宙の根本生命に還るということであります。
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短歌 抄
父と母の相容れずして訣れたる両極の性やわが血に伝わる
これの世の憂さも辛さもことごとにこのわが性を矯めなむためか
たまきはる生命のきわの枕辺になかりし悔ひやとわ忘らえじ
貧しきにわれを育てて賜びにけり縁といふも足らずしおもほゆ
わがいのち生きなむ限り養父母のいのち寂しく思いつつ生くべし
たらちねの親はもあらぬ古里に還り来りて佇むわれは
親しなきふるさとの野にわが立てば冬風すゞろ身に沁みにけり
春風は背に吹けれど故郷を遠望むわれや涙ぐみおり
過ぎにける夢とかやいはむわがいのち死ぬべくありし幾そたびぞも
逝くものはなべてかなしも冬川の水の流れはとどまらなくに
悲しみの極みといふもなほ足りぬいのちの果てにみほとけに逢う
了