ラマナ・マハルシとの対話より 31ー4 ヴァーサナー(心の潜在的傾向 自我)

・・つづき

 しかし私は言いました。「どうしてそうありえるでしょう?ヴァーサナーは真我とともに在り、けっして真我から離れて在ることはできません。もしあなたが言うようにハートが真我の座で、ヴァーサナーが脳に含まれるというなら首を断ち切られた人はヴァーサナーから解放され、転生はありえないということになります。それが不合理であることにはあなたも同意するでしょう。だとすれば、真我がヴァーサナーとともに脳の中にあると言えるでしょうか?もしそう言えるとすれば、人が眠り込むとき、どうして首をがくりと落とすのでしょう?しかも自分の頭を指さして「私」と言う人などいません。こうしてみれば、真我がハートの中にあり、ヴァーサナーも極度に微細な姿でそこにあるということは明らかです。

 ヴァーサナーがハートから投射されるとき、それは真我の光を受け、それとともに人は思考し始めると言われます。ハートの中に原子サイズの状態で潜んでいるヴァーサナーのイメージが投影されるスクリーンであり、それらの働きを分配し、配給する場でもあります。それゆえ脳は心の座であり、心は脳を通して働くのです。それはこのように起こります。

 ヴァーサナーがハートから解放されると、真我の光を受けて戯れ始めます。そしてハートから脳へと向かう途上でどこまでも大きく拡大していき、その場がそれでみたされるまで続きます。このとき、すべてのヴァーサナーは一時的に停止状態になっています。そして想念が脳に反映されたとき、それはスクリーン上の画像のように現れれるのです。このとき、人は事物をはっきりと知覚すると言われています。

 それが偉大な思想家あるいは発見家です。これまで賞賛されてきたオリジナルな思想や、物や、国などの新たな発見は、何一つオリジナルでも新たな発見でもありません。すでに心の中に存在していないかぎり、何も現われ出ることはできないのです。もちろんそれは非常に微細で知覚不可能な状態のままとどまっていました。なぜなら、より緊急な想念が出尽くしたとき、この想念は表層に現れ出ます。そして精神集中を通じて真我の光がそれを照らし出すのです。それは壮大で革新的な、新発見であるように見えますが、実際は、ずっと内面に秘められていたのです。