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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年05月06日の記事を紹介します。
「ブッダの見ているもの」
私たち平凡な人間には、誰にでも
・嫌な人
・面倒くさい人
・できればお近づきになりたくない人
などがいらっしゃると思います。
ブッダが仰った 四苦八苦(しくはっく)の中にも
怨憎会苦(おんぞうえく) – 怨み憎んでいる者に会うこと、というものがあります。
果たして、そういう人たちは、生まれながらに私たちの敵になり、私たちの前に立ちはだかる悪人なのでしょうか?
彼らも生まれる前に、神様と、今生の目的を話し合い、どうゆう人生を歩むか決めてきたのではないのでしょうか?
彼らは生まれる前から邪悪な魂だったのでしょうか?
いいえ、それは違います。
彼らも、生まれる前に神様の承諾を得て、この世に生を受けました。
今生で行う、行動なども、全て神様と相談してきました。
ですから決して、疎んじたり、憎んだりして良い存在ではありません。
敢えて、憎まれ役を買って出てくれた、尊い魂です。
天国にお互いに帰ってみれば、手を取り合って感謝の言葉をかけ合う中です。
かえって、そういう悪役やヒールをあえて引き受ける魂は、魂の成熟度が高く、神に近い存在でもあります。
今日は、そんなことが分かるブッダのお話をご紹介します。
あのブッダでさえ、生前、苦しませる人物がいました。
・罵詈雑言をあびせ、
・ありもしない悪い噂を広め、
・やること成すこと妨害され、
・時には命さえも奪おうとしました。
全ては 悔しいという 嫉妬の心から起こされた出来事でした。
さて、この世界は自分の心の反映、写し鏡 、だから、嫌なことや、何か事件に巻き込まれると言う事は、自分の心にその様な「要素」があったから。。
そうバッサリ切り捨てるのは、少し考えものです。ブッダを例にとって、ご紹介します。
提婆達多品(だいばだったぼん)第12です。
この品で世尊(ブッダ)は 悪人・女人の成仏について説いています。
<引用開始>
ブッダの従兄には、極悪非道と悪名高い提婆達多(だいばだった)がいました。
この提婆達多の実の弟が、ブッダの従者として知られる阿難(アーナンダ)です。
兄の提婆達多は、仏陀として大衆に、仰ぎ慕われる世尊を、 心の底から妬み、恨んで (ねたみ、うらんで) いました。
ブッダの悪口をあちこちで言いふらし、さらには、ブッダの通り道に大きな岩を転がし、怪我させようと企てたり、また暴れ象に酒を飲ませ、ブッダに嗾けしかけ、危険な目にあわせたり、毒をもって殺そうともしました。また弓を放って殺そうとしたりなど、あらゆる非道な手段でブッダの命を狙った人物です。
でもブッダは、この極悪非道の提婆達多を許し成仏の保証(授記)を与えたのでした。
<引用終了>
同じ釈迦族であった提婆達多は、その中でも知識が豊富で知恵もありました。
ブッダの教団に入団し、活躍していましたが、戒律の甘さを指摘し、それが受け入れられず、教団から離れて、提婆達多教団を作ったといいます。
また、青年時代にヤショーダラー姫を妻として迎えるために,ブッダと争って、敗れたと言われています。
頭の良い人、能力や才能がある人は、どうしてもこうで、あらねばならない、と考えがちなのでしょうか?
そして、自分が正しいと思った道に人も無理やり置こうとします。
そしてそれが、叶わないと分るや、今までの態度が豹変します。
まるで 可愛さ余って憎さ百倍 の世界です。
このようにブッダでさえも、その生涯において敵のような、立ちはだかる障害となるような人物が現れました。
過去に憎しみ殺し合った魂たちが、今度は役割を変えて、助け合う人生ドラマを展開する事もよくあります。
ですから、私達の人生ドラマに現れて来る沢山の出来事には、深い意味があり、一概に遭遇する全ての出来事を「自分の心の反映、写し鏡」と単純に考えることができません。
悪しきごとに見える出来事も、長い年月経ってみれば、それが大切な方向転換のきっかけとなっていることもしばしばあります。
ですから、私達に出来る唯一の事は、周りで起きた出来事に対し、
・不平不満、
・愚痴、
・恨み、
・ねたみ
などの感情を持つのではなく、いえ、持つのは当たり前ですが、持っても、そこから直ぐに心を離し(二の念を持たない)、感謝の気持ちに切り替えてしまうのが良い方法かもしれません。
何故なら全ての出来事は神さまの承諾の元、私たちの魂を研ぎ澄ますために起こされているからです。
これも訓練です。一朝一夕には行きません。
何度も何度も失敗しながら、少しずつやって行けば良いのだと思います。
人間ですもの、、完璧なんてありえません。
■参考 ブッダ前世物語より
<引用開始>
ブッダの前世と、ある仙人のお話
私(ブッダ)は前世において、ある国の王でありました。
私は、無上の智慧を得たいと願を起こし、布施の行を怠ることなく続けていました。
人に尽くすためには、あらゆる財産も城も家族たちも、自分の身体さえも犠牲にして行いました。ついには、国王の地位を捨て、政治は皇太子に任せて、四方八方に師匠を探し求めておりました。私は、私に大法を伝える人あるならば、自分は召使いとして仕えようと、本気で考えていました。
ある時、阿私佗仙人(あしだせんにん)という人が 私を訪ねてきました。
道を求めるならば、この私に仕えなさい、最もすぐれた教えを伝えましょう、と私に説いたのです。まもなく、私は自らすすんで その仙人の召し仕えになりました。
その仙人の許で、毎日、木の実とり、水汲み、炊事など、日常全般の仕事を1人で行なっていました。
師がお疲れになった時、腰掛けるものがなければ、地べたにうつぶせになって、腰かけにもなりました。
私は、そのようにして、その阿私佗仙人に、千年も仕えておりました。
法を聞く喜びで、心は満たされていたので、日常の労働を辛いと思ったことは、けっして ありませんでした。私には、諸々の衆生を苦から救いたいという願いがあったからこそ、続けることができたのです。
実は、この阿私佗仙人とは、 従兄の提婆達多の過去世の身(姿)でありました。
このような過去世の因縁があるので、今、私は、この提婆達多にも授記を与えましょう。
提婆達多は、無量劫(むりょうこう)の長い年月を修行して、仏の境界へ達するでありましょう。そして、天王如来となるでしょう。
<引用終了>
深いお話ですね。自分に起きることは、全て因縁があって起きています。
ブッダは、その苦しめられている当時もきっと、前世、来世、全ての過去、現在、未来を見渡す目で持って、提婆達多の行いを見ていたことでしょう。
この時のブッダの態度はお経などには残っていないようですが、
悪口を言われた時の態度に関してブッダが取った行動などから類推すると、ブッダはそれらの嫌がらせに一切、反論もせず、逆らわず黙っておられた。
つまり、悪しき贈り物を受け取らなかったことが予想されます。
その結果、提婆達多の行動は全て自分自身に帰ってきました。
まさに宇宙の法則、与えたものが、受け取る物、という法則の通りです。
提婆達多の最後はこんな風に描かれています。
10本の指の爪に毒を塗り終わると、「うわーっ」と叫びながらただただブッダのもとへ走っていきます。やがて祇園精舎におられたブッダを見つけた提婆達多は、「キーッ」と叫びながらブッダに飛びかかり、ひっかき殺そうとしたのです。
ところが、ブッダしか目に入っていなかった提婆達多は、足下の石につまずいて地面に手をついてしまい、爪がはがれて自分の体に毒が回り、体が焦げるように苦しみながら、その場で息絶えてしまいます。それが、提婆達多の最期でした。