再録 ある道のり32~いのちの実相 15 真理への道 1~

「奇跡の道」の自己学習へと導いたのは
友人からの発信による「神の使者」という本でした。

神の・・・という本は多く、過去幾冊も読みました。
またそのような本かなと思い読み進みましたが、
そこには思いもよらぬことが書いてあったのです。

まずその本の帯には
「自分という幻を捨てたとき 宇宙は消え去り 神という(現実)が現れる」
この文章を理解するにはなんとすればいいのでしょう。

自分は幻。?(ちゃんと体があるでしょう)
自分を捨てれば、宇宙が消える。?(自分を捨てるってどういうこと?
宇宙は消えるものなの。?)
神という(現実)?(現実が今で神は幻想でしょう)

まず現実はいつもあるとほとんど無意識に感じているのに、
私たちの感じている現実はなくて、すべて神なのか。
そして自分は幻なのか。

幻の自分を捨てれば 宇宙という現実は消えるのか。
普通では理解できないこの帯の意味。

しかし、読み進むうちに、長い間の疑問が解けていくことが
心地よく、以前の体験の意味がしだいにわかってきたのでした。

天は不変、地は無常。そしてその間に人はいます。
わたしたちは無常であるこの地上でのできごとを「現実」ととらえ、
信じてまったく疑うことをしていません。

そして無常であるがゆえに、さまざまな意識で心は満たされ
その心さえ定まることがありません。

でも、もしこの地上にて、この「現実」にて起きていることが
何の意味もない幻想のようなことだとしたらどうでしょうか。
またさらに自分が自分であって、この肉体が自分だとも
信じて疑っていません。

でも、もしこの肉体が幻想であって、自分はただ肉体を自分だと
信じているだけだとしたらどうでしょうか。

もしそうであれば、私たちが不安や恐怖、悲しみや怒りをいだいた
最大の自我である「自分を肉体と思うこと」から開放され
あらゆる不安、恐怖、悲しみ、怒りから開放されます。

でもなかなかそうとは思えない。
理想的な説法にしか聞こえません。
しかしもう一度、そのことが真理であって、私たちの常識が間違いだったら
どうでしょうか。
まさに体験のイメージはそのように伝えていたのですから。

人間は「過去」他に与えた愛ある想念の分だけ赦す事ができるし、
「過去」他から与えられた愛ある想念の分だけ赦す事ができると
「奇跡の道」では語っています。

「過去」はなく「未来」もない、今にすべてがある。
今までよく耳にする言葉でした。

「過去」与えたり、与えられたりした愛ある想念とはなんでしょう。
もし時間の概念や、空間(地)の概念が無に等しいとしたら。
「過去」は何故認識されるのでしょう。

そして「未来」というものに希望や恐れを何ゆえ抱くのでしょうか。
私たちが「過去」や「未来」をあるものとして認識するわけはなんなのでしょう。

さまざまな疑問の答えが「奇跡の道」の学習によってもたらされます。
まさに長く信じて疑わなかったことがらが、たしかにあの時吹き飛んだのです。
もしかしたら、私たちはひとつのいのちなのかもしれない。

そう思わざるを得ない出来事は圧倒的で、「神の使者」は
そのことの説明に過ぎない。

疑問をはさむことはしごく当然だけれど、だとしたらあの体験を
どのようにこの「現実」の言葉で説明できるのだろうか。

この世にそれを説明できる言葉がないとしたら、その体験こそが真の現実では
ないのだろうか。

学習を続ける日々は、今までの人生での多くの激しい出来事のすべてに、
自我がどのように対処してきたかを次第に思い出させるのでした。