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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事「坐禅会運動について」その1 2022.09.14 ~その27 2022.10.16 を2回に分けて紹介します。
「坐禅会運動について」
なぜ「坐禅会運動」を提唱するに到ったのか、そのいきさつをふりかえってみたいと思います。話は30年ほど昔にさかのぼります。
私は「イノチは本来ひとつ」なんだということを、42歳の時に天からのインスピレーションで知らされました。それが「ヒトの逆円錐モデル」です。→『国生み記伝』(バンクシアブックス)p.27参照
そして、47歳の時に人類の魂の進化がどのように進んできて、これからどの方向に向かい、最終ゴールはいつで、その時どのような状態になるのかを天からのビジョンで教えられました。それが「金平糖大作戦の神話」です。→『ココロとカラダを優しくほどく』(バンクシアブックス)参照
「金平糖大作戦の神話」を大まかに説明すると、始め丸いひとつの魂(「小丸」)であった人類の魂は、さらに進化したい、より大きくなりたい(「大丸」になりたい)という激しい成長衝動(根源意志)を持っていて、そのために、丸い魂からウニのように無数のツノをニョキニョキ生やし、そのそれぞれのツノに自らと同じ激しい成長衝動を埋め込みました。その多数のツノの一本、一本が、実は私たち個々の人なのです。
やがて個々のツノ(個人)が、より高く、より太く育つという成長を始めました(この時点で個々のツノの成長を継続させるために「転生」が始まりました)。
しかしその途中で、自分たちは丸いひとつの魂という母体から生え出た存在で、今もその養いを受けているんだ。また他者に見える他のツノ(人)とも、実は根っこの部分でつながっている「一体のイノチ」なんだということをすっかり忘れてしまいました。
それによって、ツノとツノがツノ突き合わせて争っているというのが現在の状況です。
この進化段階を「分離の時代」と呼びます。進化の過程としてどうしても経なければならない過程なのです。
現在は、その「分離の時代」の最終段階で、さまざまな矛盾が一気に噴き出してきています。しかし、そんな人類のお先真っ暗で、まるで終末間近のように見える状態の奥で、黙々と育ってゆきつつあるものがあるのです。日の出は近いのです。
それぞれのツノが少しずつ育ってきました。より高くなり(視野が広がり)、より太くなって、ツノとツノが融合しはじめ、お互いの気持ちを思いやったり、協力し合うことが出来るようになり、また高い視点から地球全体の危うい状態を知って、対処出来るようになりつつあります。
「分離の時代」を卒業して「ユニティ(融和一体化・連帯)の時代」が始まろうとしているのです。
ツノとツノが根っこの部分から始まって徐々に一体化して、高い部分にまで融合一体化が及ぶようになり、最後は再びトゲトゲのないまん丸い魂に戻るのです。「小丸」から「大丸」に、より成長した丸い魂として…。
そして、「大丸」君となった人類の魂は地球における進化過程を修了して、次の進化の舞台となる星へとジャンプするのです。その出発はどうやら35世紀になるようです。
もちろん、私の現在の地上での命は、そのゴールの瞬間の歓喜を見ることは出来ません。
ですから、私の志を引き継いでくださる仲間がどうしても必要になってきたのです。
そこで、「しあわせ通信」を始めました。この「しあわせ」は「志合わせ」でもありますね。私が天から届けられたメッセージに共鳴し、共に歩んでくださるという仲間が少しずつ増えてきました。
そこで、さらに「お日さまの仲間(日の仲間)」というグループを作ることにしました。
なぜ「お日さま」なのかというと、どうやら私をリードしてくださっているのは、「太陽神霊」のグループソウルたちであるということが分かって来たからです。
インスピレーションを授かるようになった、そもそもの発端が、42歳の時に伊勢神宮に参拝して、天照大神さま(太陽神霊)から、「言葉の御用」という天命を授かったことであったのです。
「日(ひ)」は「一(ひ)」でもあります。イノチが実は「ひとつ」しかなくて、それぞれの人が一体のイノチで、すべての人が「日処(ひと)」で、つまり、太陽神霊(日)の理念を地上世界に降ろす地上基地(処)であり、太陽神霊の徳をそっくりそのまま受け継いだ「日継ぎの御子」であり、すべての人が神の「日執り子(ひとりご)」なのだと教えられました。
それぞれの人が、神の「ひとりご」で、平等に尊い存在である。なぜならば、それぞれの人が神に託された「一人一芸(日執り一芸)」のお役を務めており、どの人のどの役割が十分に果たされなくても人類全体の進化過程は完成出来ないのだ、と教えられました。
ジグソーパズルのワンピースが欠けただけでも、人類進化達成図は完成しないのです。だから、すべての人が平等に尊い、大切な存在なのです。
さて、「お日さまの仲間(日の仲間)」というグループを作ろうとした時に、会の基本方針を定めました。それが<「お日さまの仲間」の信条>4箇条です。
<「お日さまの仲間」の信条>
(1)明るくて、温かくて、潤いがある「安心できる場」を作ろう
(2)リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう
(3)「あなたがあなたであること」以上に尊いことはない、ということを知ろう
(4)菩薩としての自覚を持って、分に応じて「ダーナ行」を粘り強く実践してゆこう。他のために生きることの喜びを体験しよう。
<「お日さまの仲間」の信条>の4箇条のうちの<リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう>という項目は、30歳代始めに坐禅の仲間と作っていた大愚会(たいぐかい)のスローガンのうちのひとつを継承したものです。
なぜこの条目を加えたのかというと、当時、禅を学んでいた私たち若い仲間は、伝統的な禅の教育システムによって育てて頂きましたが、その指導法にやがて違和感を感じるようになってきたのです。
禅の道場のことを「叢林(そうりん)」といいます。叢林とは木が群がって生えている林のことです。
師匠は、禅の道場は修行者が一同に集って競い合い、切磋琢磨しながら修行してゆくんだ。その様子を「叢林」とたとえるのだと説明されました。
そして、さらに「野中の一本杉」の話しをされました。
平地に高く聳える杉がただ一本だけポツンと生えていることがある。しかし、これははじめから単独で育ったのではなく、はじめは、その一帯は「叢林」で、たくさんの仲間と競い合って修行してきたんだ。しかし、やがて一本が枯れ、次の一本が枯れして…最後はついに一本だけ残って大木に育つことが出来たんだ。
その大木を蔭涼樹(いんりょうじゅ)といって、その大樹のもとで、雨や酷暑から人々を憩わせる大人物となるのだと説明されました。そして、この大木一本を育てるために「叢林」と呼ばれる禅の道場はあるんだとおっしゃいました。
私はこの考え方に疑問を感じました、抵抗を感じました。
どう見ても私はこの最後の一本の大木になれそうにはありません。人と競い合う体力も精神力も能力もありません。そんな弱い人間は、大樹を育てるための添え木にすぎないのか。途中で挫折して消え去っても師匠は痛くも痒くもないのか。このような従来の禅が持っているエリート主義、切り捨て主義が誤っているように思いました。
それで、このような私の意見に共鳴してくれた若い仲間と、これまでの禅とは違う、もっと抱擁力があり、タテの関係よりヨコの仲間の助けあいを大切にする禅を作りたいと思って「大愚会」という在家の禅の会を始めたのです。
そして、その仲間に企業で「小集団活動」の研修を担当している方がいて、その活動に<リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう>というスローガンがあると聞いたので、それを採用して大愚会のスローガンとしたのです。
その当時は、まだイノチはひとつしかないという事や、それぞれの存在がその「ひとついのち」の進化向上のための一役を担っているのだ(一人一芸の御用)、というメッセージを受けていなかったので、この<リーダーシップより「メンバーシップ」>という言葉の本当の意味が分かっていたわけではありませんでした。
「メンバーシップ」の意味が本当に分かるようになるまでには、さらに十数年が必要でした。学校で総務部長や教頭を務めたことによって、ようやく「メンバーシップ(役割分担)」の意味がハッキリしてきたのです。
人体のたとえで説明してみましょう。
人のカラダにはさまざまな部品があります。頭や眼や耳や鼻や、皮膚もありますね、内臓のそれぞれや、手足や、そのそれぞれの指や、血液やリンパや、膀胱や肛門もありますね。
それらのうち、どのひとつが欠けても人は生きることが出来なくなりますし、学び成長することが出来なくなります。
人の根本意志は、「限りなき成長進化」なのですから、その意志実現のためには、どのひとつの器官であろうとも重要で、大切な存在なのです。
そのひとつひとつの器官に相当するのが、私たち一人一人の個人で、どの一人も全体生命の成長のためには重要な存在で、欠けてはいけない存在なのです。
そして、それぞれの人が全体生命(神、人類の魂)から役割を配分され(天命)、依託されており、その役割を精一杯努めて、その人生を生ききれば、それで全体生命に対する最上の貢献となるのです。
皆がアタマや眼や口の役割を果たさねば意味がない。肛門や膀胱や粘膜の役割なんてつまらない、価値がないというのは間違っているというのはお分かりですね。
どのひとつの役割が十分に果たされなくても、全体生命は順調に育ち、ゴールに向けて歩んでゆくことは出来ないのですから。
従来の禅でもう一つおかしいと思ったのは、「悟り至上主義」です。
悟らねば修行しても意味がない。坐禅は悟るために坐るんだという頑なな思い込みです。
若い頃は、その思い込みに反発を感じましたが、その「悟り至上主義」のどこが間違っているのか、うまく説明出来ませんでした。
しかし、55歳を過ぎたあたりだと思うのですが、「悟り」とはどういうものなのかという理解が一気に深くなりました。この理解は、道元禅師の著作をもう一度読み直したことによって獲得出来たのです。
道元禅師は「悟り」と「迷い」を徹底的に分析されて、「悟り」を握りしめると「迷い」になり、「迷い」から逃げないで、そこにイノチの重心を据えて生きるぞの覚悟を決めたら、それが「悟り」なんだと説いておられます。
つまり、「悟り」とか、「迷い」とかいうコロッとした実体があるのではなくて、イノチというサイコロの「一の目」が「悟り」だとすると、「六の目」が「迷い」で、「一の目」を体験して喜んだり、「六な目」にあってうろたえたり、悲しんだりしながら、イノチというサイコロは、いろんな「目」に会いながら、コロコロ転がって成長し、前進して行けるのだよと道元禅師は教えて下さたのです。→『あなたに起こることは、すべて宇宙のはからい~現成公案読解~』(トータルヘルスデザイン社)参照
さらに、「悟り」というのも、全体生命(神)から依託された役割にすぎないんだ、ということが分かってきました。
別に悟ったから偉いというわけではない。前生で君は裏方さん的な役割が続いてきたので、今生では「悟り役」をしなさいと神に命じられて、そして「悟り」という能力を貸し与えられただけのことなんだということが分かってきました。
京兆米胡(きょうちょう めいう)禅師が、「悟りは借り物だ」とおっしゃっていますが、「悟り」は私有出来るものではなく(私有しようとすれば、即「迷い」に転じてしまう)、神からお借りしたレンタカーなんだということが分かりました。
さて、私も歳をとって、今後長く地上にとどまる事は出来ないので、そろそろ志を引き継いでもらうための「形」を、地上に残しておかねばならないと思うようになってきました。
天のメッセージによると、大敬は「一(ひ)の時代」で、「イノチはひとつ」という「日の理念」を高く掲げて示し、人類の遠い未来の先、歩み続けるべき方向を「日のサーチライト」で明るく照らし示すのが天命、そして、大敬の次の時代の後継者は「三(み)の時代」を担当することになる。
「三(み)」は「身(み)」であり、「実(み)」であって、日(一)の理念を地上に降ろして、しっかり根付かせ、それを育てて具体的な「形」を建設してゆかねばならない(日の寄進=日の理念を皆で寄り集まって協力し、形の世界に推し進めて建設してゆく)のだと教えられました。
では、地上に根ざして、日(一)の理念を着実に現実化してゆくためには、どういう「形」がふさわしいのか、いろいろ考えました。
若い弟子たちに「悟り」を体験させる努力をすればいいのか、はじめはそのように考えました。
しかし、それでは従来の禅の教育システムと同じになってしまいます。
「悟り」を得た人をリーダーとする、「悟り」を開いた人だけに教職免許を与えるというのでは、従来の禅の教育システムと同じです。