なんにもならんことをコツコツやり続ける人は尊い人。
世の中には報いを求めずただ淡々と行動し続ける人がいる。
「与えて与えて与え続けること」は人の生き方で最も尊いことか。
そして報いを求めない。
与えることの上中下。
おじさんはおっしゃる。
「物を与えるは下、生き方のヒントを与えるは中、
感謝の祈りは最も上の与えるということだね」
絶対の感謝こそ最上の与えるということ。
感謝に与得はない。
私たちは人生で何度も他の人から物や生き方を与えられてきた。
ただ祈ることは自分で気付くしかないことかもしれない。
教えてできないこと。
でも人生のあらゆるシーンで与えられることによって、
最上の祈りへの道の練習を繰り返してきたのだろうか。
業を離れた感謝の中に、まばゆいばかりの光があるのだろうか。
中学校時代から高校時代まで、与えられ続けた人がいる。
家のまん前の印刷屋さんに突然住み込みだしたYさん。
なんだか訳ありの人のようだった。
でも聴いてはいけないことがある と子供心に思ってた。
中学生の私を可愛がってくださった。
銭湯に誘われて、湯船に入るとYさんは手こぎだけで、
5分もの間 浮いていた。
「ほんとは もっと長くできるよ」
子供にとってはスーパーマン。
「オリンピックの強化選手だったんだよ」
訳ありだな—-。
「どうして 一人でいるの?」
「奥さんや 子供さんは?」
余計なことを聞いてしまった。
そのときYさんは「いろいろあるからなあ」と
こたえるだけだった。
「今日はカレー作るぞ! まあちゃんおいでよ!」
彼の部屋で 辛い辛いカレーを食べた。
「勉強してるか? 今やっとかないと 後で後悔しても 遅いよ–」
高校入試の頃、そんな言葉で激励してくれた。
顔をみるといつもだった。
兄貴に言われるとシャクだけど、Yさんの言葉は勇気をくれた。
3月21日、高校入試の発表の日。
「一緒に発表 車に乗せてってあげるよ」
公立一本の私の入試はガケップチ。もしやの時の落胆を
やさしく包みこむ Yさんの言葉だった。
その日、春にはめずらしい雪が降っていた。
高校の正門前で車を降りようとする私に彼は声をかけた。
「落ちてても 受かってても 笑顔で帰って来いよ!」
こんな鮮明な言葉を40年もたつ今も はっきりと思い出す。
近所の噂で、かれは家族を捨てて、蒸発し印刷やさんに
隠れ住んでいる ときいていた。
印刷業の失敗が原因らしかった。
Yさんと別れるときが来た。
高校を卒業して、家を移ることになったのだった。
そして無事に大学も受かった私と彼との最後の別れは
喫茶店。
「まあちゃんは えらいな よくがんばったな 嬉しいよ」
彼の最後の言葉だった。
大学 社会人を経て名古屋に戻った。
私は26歳になっていた。
それから一年が過ぎた27歳の年の暮。
Yさんから会社に突然電話があった。
およそ10年ぶりだった。
「よく名古屋に来るんだよ。
会いたいなあ」
「今ね 岐阜の家に戻ってね 息子もいっしょに
印刷屋 やってんだよ」
私たちは デイトの日を決めた。
その日がやってきた。
朝 Yさんから電話。
「やっぱりねー 会えないよ—
はずかしいよ
まえのままで 覚えておいてよ—」
短い電話の中でわたしたちの 思い出は永遠になった。
こんなに物心すべてにわたり、お世話になった人はいない。
その精神を、生きている限り少しでもお伝えしたいと念願している。
ありがとうございます