今年の誕生日令和5年8月9日を迎えました。
毎年誕生日近辺ではとても激しい出来事に遭遇します。
そんな今年の日に、昨年の激しい日々を
思い出していました。
関東立川市に住まいする実の妹の訃報が届いたのが
昨年の7月30日。
通夜が8月6日土曜日で葬儀が7日。
娘夫婦と孫たち、そして息子が出向くことに
決めていました。
娘や息子は明るくて霊能者のような
年寄り歌手の妹が大好きだったようです。
だがその通夜に旅立つ日の午前12時という
深夜にケイタイが成りました。
尋常ではないと感じます。
「妹が天川の弥山に昨日から友達と二人で登ったんですが、
泊まる予定のお宿に着いていないと、宿主さんから
警察に連絡があって、緊急連絡先が私でしたから」
東京から、遭難者と思われるSさんのお姉さんからでした。
Sさんは会社の社員さん。そしてもう一方は友人の
Aさんでお二人ともとても関係が深い方。
「分かりました!実は立川で今日明日妹の
葬儀がありまして、それが終わりましたら
天川へ参ります」
そのようにお答えしました。
その日の土曜日午前11時に名古屋を出発。
道中とてもSさんやAさんのことが気になって仕方ありません。
「早く天川に行きたい」思いは募るばかり。
翌日の7日葬儀の直来の席で妹の弔いの挨拶をしていました。
「妹はかなり年をとってから歌手になりました。
さぞかし旦那さんにご迷惑をかけたでしょう。
すみませんでした。
妹に代わってお詫び申し上げます。
妹がまだ若い頃、家出してしまって3か月ほど
音信不通で、心配した母から連絡を受けていました。
それで自分のお客様のご紹介で「人探し不動」と
呼ばれるお不動産のおばさんに会いに行きました。
そしたらそのおばあさんはちょっとびっくりするようなことを
おっしゃいます。
「大丈夫明日電話させるから」
眉唾もんです。ほんとうだろうかと不思議に思いながら
それでも少し期待して翌日を待ちました。
そしたら母から会社に電話です。
「R子から今電話があって、元気だから大丈夫。
いまある人のところにいるの。」
そのある人がそのご主人でAさんです。
みながいささかビックリしていた。
終了後娘婿さんと息子が交代で一路名古屋へ
一目散です。
翌日の月曜日、天川村役場に急ぎます。
同行者はお二人ととてもご縁の深いOさん。
天川村役場では「遭難者捜索本部」が置かれていて、
警察の課長さんが本部長で消防局長さんが副本部長
という役どころ。
後刻Sさんの桑名のお兄さんと、Aさんの息子さんが
到着。われわれ直接の親族と異なって縁戚の方々の
不安は見た目におおきなものとみえます。
そんな不安の声をよそに、珍しく自分は声を
張り上げます。
「まだ死んではいない。そんな不安を言って
どうなるんですか!」
OさんとAさんのむすこさんと自分で情報共有の為、
ラインのグループを組みます。名前は
「SさんとAさんを発見した会」です。
完全に達成を見つめています。
後にこのライングループが威力を発揮することになります。
5日の不明の日から4日が経過していました。
ヘリは7日から2日間飛びました。
そしていよいよ8月9日のその日が最後の
ヘリが飛ぶ日。上空のヘリを見つめ祈りました。
その日ヘリが夕刻去り、捜査陣も本部に戻ってきて、
操作の結果を報告です。
新たに折れたステッキとジャンパーが発見されました。
お二人の物との判定は少し難しいと操作の方々は
判断しているようです。
そして本部長の説明
「今日でヘリが3日間飛んでいます。
通常はヘリは3日と決まっています。
大変に残念ですが、本日を持ちまして
ヘリによる操作は打ち切りです。」
ここで食い下がりました。
「実は6日の午前8時から9時ごろAさんの
ケイタイのメッセンジャーが起動していました。
必ず生存しています。」
操作本部長は「???」です。
しかし物証やこんな証言にもかかわらず
ヘリ操作は打ち切りと決定。
われら二人はひとまず天川村を離れ名古屋に戻ることに。
そして帰路名阪近くのドライブインにいて小休止の
時刻に、Aさんの息子さんから連絡があります。
「昨日弥山から降りてきたご夫婦が谷底から
ドラム缶を叩くような音がしたと、警察に連絡に来ましたので、
捜査本部はもう2日間ヘリを飛ばすことになりました!」
歓声を上げました。
そしてこの2日間の延長が思わぬ奇跡を呼ぶのです。
翌日の10日、ヘリが4回目飛びます。
ですが目だった証拠もなく捜索隊は夕刻戻ってきました。
これで3日間詰めたOさんと自分は一旦
名古屋に戻ることにしました。
「きっと大丈夫」不思議な確信をずっと持てていました。
Oさんは職場を休んでばかりなので、11日は家に戻り、
自分は再び天川村です。
その日はしとしとと時折雨が落ちる山の天候です。
またSさんの昔の登山クラブの仲間たちが詳細な
操作を11日12日と行うことになっている日でもありました。
自分は本部にいても何にもならんので、とりあえず
弥山の下山道の分岐点まで行ってみようと、裏側から
車で行けるところまで行って分岐点への道を一時間ほど
歩いてみることにしました。
まずは天川神社によって感謝祈願。
そして天川の小さなすずで赤い帯の物を
買い求めます。熊よけのためです。
車の行けるところまでで、駐車してそれから徒歩です。
それから道すがら、声をあらん限り出します。
多分一生分の声を張り上げた感があります。
叫ばずにはいられませんでした。
雨が時折ぱらつきます。
気が付くとクマよけに求めた鈴がみあたりません。
どこかに落としたのかと探します。
5分ほど経って赤い紐だったことが幸いして
発見。
再び歩き出したところで、雨が激しく。
それでも分岐点への道のかかりに出ることが出来、
狭いその道の第一歩を踏み出そうとしたところ
石に懸けた足がすべって「あこれは危険!」
と続けることを断念せざるを得ませんでした。
なくなった鈴が運をもたらしたのかも。
本部に戻ると、Sさんの昔の仲間と消防局長が
情報交換です。そして捜査隊が戻り本日の
操作報告。目だった発見はありません。
7日目です。
いよいよ限界の5日目の最終ヘリも戻ってきました。
疲れもあって、少し気落ちしながらも名古屋へ戻ります。
そして名古屋で待機中の翌12日、8日目の7時ごろでしたか
光のような連絡が届きます。Oさんからでした。
「警察に連絡が入って無事を確認しました。
今日はその場所に夜中中留まって、明朝の捜索を
待ちますとのことでした」
お声が弾んでいます。
実は8日目もうヘリが飛ばなくなったとわかった
Sさんは決死の覚悟でAさんのみ残し一人で
尾根へ這い上がる決断をします。
勇気がいったと思います。
そして苦闘の末、尾根の少し広い場所の
わずかに50センチ平方の場所に来た時
携帯がピット反応します。
Sさんはただちに警察に連絡します。
警察はすでに位置を確認していたようです。
翌日13日喜びを持って1週間で3度目の天川へ
こんどはHさんと共に出向きました。
ずっと通い詰めた天川村役場はもはやなつかしい
思い出の場所となりました。
そこで待つ私たちの前に9日ぶりのお二人が・・。
消防局長さんはぽつりと言いました。
「こりゃ、ヘリの飛行期間は5日に変えないかんかも・・・」
お二人は偉大なことをしたのかもわかりません。
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