致知出版社 一日一話 読めば心が熱くなる・・ 第二弾 18 「真っ赤になって怒っていた富士山」

芹沢光治良 作家

 その時代ってのは、日本の農村も漁村も貧しかったわけですからね、子どもだけは、貧乏人の子だくさんというように、多かったでしょう。子供なんてのは「ごくつぶし」っていわれてたですからね、僕が小学校に行くようになってもね、毎年十二月末から三月上旬まで西風が吹くんですが、西風が吹くと漁師は出漁できないんですね。
 そうするともう、お弁当が持っていけない子供たちは学校へ行って、お昼の鈴が鳴るとね、井戸端へ出て、水を飲んでね、我慢した。病気になったからといって医者にもかけてくれないんですな。「腹を干す」といって絶食させて寝かせておくんです。そのまま死んでも「口減らし」ができたと家族はほっとした時代です。そんな状態でしたからね、中学なんて行くことが出来なかったわけです。本当ならね。

 そんな時に、伊藤博文が亡くなって、国葬になった。これは非常に印象的な出来事でした。僕が教えてもらってた先生が、僕をおだててね、伊藤博文だって貧乏でね、食べられないような百姓だったけど、一生懸命勉強したから、こうして国中の人が感謝するようになったんだ、だからお前、失望しちゃいかん、お前も頑張れ、なんておだてられた。子供だからね、本気にしちゃうのね。勉強なんかできる境遇じゃなかったわけですけどね。実の父親が子供の時からわりと読書家だったらしいのね。勉強家だったから、財産を宗教に捧げて出て行ったりするんだってことで、僕は一切本を読んじゃいけない、教科書も開けちゃいかんといわれたわけです。

 ある日、同級生の子供が雑誌を貸してくれてね、始めは教室だけで読んでいたんだけれども、面白いものが載っていたんで家に持って買って読んでたんです。そしたらおじさんに見つかってね、いきなりその本を取られて風呂の焼き場にすてられちゃった。もう、とてつもなく申し訳なく思ってね、死ぬ以外にないと思ったの。当時はね、修身ってのがあってね、修身ってのは親に孝行することだってこと、そして親を安心させることだっていうようなことでね、一緒に帰ってくる子が、ある日、自分には兄弟が十二人いる、その下から三番目でね、「親に孝行するのは口減らし以外にないんだ、俺は死ぬよ」なんていうのね。まさかとは思ったんだけど、それがね、本当に川へ飛び込んで自殺したのが、本を焼かれた三週間ぐらい前だったの。だから、ああ、そこに飛び込めばいいわいと思ったんです。

 ところが、いざ飛び込もうと思ったらね、やっぱり自分は意気地がないんですね。三度試みたんだけど、飛び込めなかった。その時、川を隔てて富士山が見えたんです。夕方だったもんですからね。真っ赤に夕焼けを浴びた富士がね、何か富士山が真っ赤になって怒っているふうに想像しちゃった。ああ、死んじゃいけないんだ、あんな顔して怒っているから、死んじゃいけないと思って、泣きました。

 そんなことがあってから、自分は富士山が恩人だというふうなことを、子ども心に思ったわけです。そのことはずいぶんやっぱり生きていく張り合いになったですね。