3211「大敬ワンディー・メッセージ1」2023.10.11 自分で自分を自分するから

立花大敬さんの「青空ひろば」の最新の内容を二回に分けて紹介します。

大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」

1025 2023.07.08 ~ 1102 2023.10.03

今日のテーマは「許すということ」。実はこのテーマで何度もお話ししているんですけど、初めて聞くという人も居ると思うんで、聴いた事がある人も悪いけどもう一度聞いて下さい。

一つ目は<許さない心を持ち続ければ、貴方が不幸になります>という事。

例としてあげるのはウェイン・ダイアーさんの場合です。

この人は自己啓発の部門で世界一のベストセラー作家。たくさん著書が書店に並んでいる。今はどうかな、昔は一世風靡した人だと思います。

ダイアーさんのお父さんはアルコール中毒だったらしくていつもお母さんに暴力を振るう、そういう暗い家庭だったらしいです。

そして、ダイヤーさんが二歳の時にお父さんが家族を捨てて出ていった。

それでお母さんは生活の手段がないので、仕方なくダイアーさんを孤児院に預けた。だからダイアーさんは孤児院で育った。しかし、多分頭が良かったんでしょうね。勉強をしたいというので奨学金を…、今のアメリカと違って昔はそういう事に対してすごくチャリティ精神が旺盛な国だったので、奨学金をたくさん貰って大学に行くことが出来た。そして苦学の末に博士号も取得して、大学に残って准教授まで、昔の助教授ですね、になったらしいんです。

で、そこから転身して自己啓発の部門の本を書く作家になろうとしたんです。でも中々本が売れないんですね。ベストセラーが書けないという状態だったらしいんです。

もう34歳になっていたらしいんですけど、「君のお父さんが亡くなったらしいよ」と親戚から電話があった。「ミシシッピ州のビロクシーという所に埋葬されたらしいよ」と聞いたんです。

たまたまその地方に出張で行く予定があったので、これを機会に調べてみようかなという気持ちになって、用事が終わってからレンタカーを借りて調べに行こうとしたんです。

新車だと聞いたのに、車の中になぜか名刺が落ちていたんです。どんな名刺かというとキャンドルライトインというホテルの名刺で裏にそのホテルの位置の地図がついている。そんな名刺が落ちていたので、『新車だというのになぜこんな名刺が落ちているんだろう?』と不思議に思って、無意識にポケットにそれを突っ込んで出発した。

それからビロクシー郊外のガソリンスタンドまで行って電話帳でその地方のいくつかの墓地を調べてみた。まず最初の墓地の電話番号に問い合わせてみると、「メルリン・ライル・ダイアーという人のお墓がありますよ」と言われた、それがお父さんの名前なんです。それで、お宅の墓地にはどう行ったらいいんですかと聞いてみると、「キャンドルライトインというホテルがあって、お父さんはそのホテルの横に埋葬されて墓がありますよ。キャンドルライトインへの道順はガソリンスタンドの人に聞いてください」と言われたんです。

ダイアーさんはびっくりしたんです。ポケットに入ってるんですよ名刺が、それにその墓地までの道順を示した地図が画いてあるんです。

ダイアーさんはその名刺に示された地図を見ながら墓地にたどり着いたんです。そこにお父さんの小さな墓があった。その墓を見て茫然と佇んでしまった。

それからワンワン泣いた。お父さんが自分たちを捨てて出ていって、それから自分たちは苦労して、ようやくここまでたどり着けたんだけど…。そういう話を次から次へと思い出して大声で泣いた。数時間ずっと泣き続けた。

そうすると次第に穏やかな気持ちになってきた。なんかお父さんがあたたかく抱きしめてくれている様な気持ちになったというんです。

その時にお父さんの墓に向かってね、「私はお父さんに引き寄せられてここに来たように思います。私はお父さんがなぜあんな生き方をしたのか今でも理解は出来ません」理解は出来ないんですね。理解が出来なくてもいいんですね。

「でも、私はお父さんを憎めなくなってしまいました。お父さんはその時々をお父さんなりに精一杯の選択をして生きてきたんだという事が今の私にはよく分かります」、そうお父さんに向って語った。

色んな人がおりますよね。この間も看護師(女性)さんが来て、「最近患者さんとケンカばっかりするんですけど、なんでこんな事になるんでしょうね」って。

私はこう言ったんです。「結局ね、その患者さんはね、どうしてもそういう振る舞いしか出来ないんですよ。けどね、彼は彼なりにね、精一杯生きてるんですよね」と言ってあげた。「あなたもね、どうしてもその患者さんに腹を立ててケンカになってしまうんだけれど、いけない、いけないと思ってもそうなってしまうんだけど、あなたはあなたなりに精一杯生きているでしょう。みんな精一杯の人生を生きているんだけれど、それぞれいっぱい欠点や限界があるんです。みんなシモタシモタ(しまった、しまった)の人生をエッチラオッチラ生きているんです。ドングリの背比べで、自分も人も悲しいことだけれど、それがまた可愛い、愛しいところでもありますよね。そうして、その限界・欠点を持ったままで、自分も人も温かく抱擁してゆかねばね」

お父さんもお父さんなりに精一杯生きたんやと思う。でもそういう悲しい結果になってるんよね。

「私はもうお父さんを憎めなくなってしまいました。私はお父さんを許します。そしてお父さん、今度こそ安らかに眠って下さい」と祈って墓地を出た。

するとですね、それから今まで苦労してもなかなか本が書けなかったのが、楽々スラスラいい文章が書ける様になったのだそうです。そして今までは色んな出版社に送って出版してくれって依頼しても殆ど断られていたんだけど、何故か一番必要な人にジャストタイミングで出会える様になって、必要なタイミングで一番いい出版社から本を出して貰える様になり、そうしてその本が次々ベストセラーになってついに世界的なベストセラー作家になって現在に至っているというわけです。

その運命転換のポイントになったのはお父さんを憎んでいた気持ちを手放したからなんですね。

憎む気持ちが自分を縛るんです。

憎む気持ちって杭、心の杭の様なもので、そこに犬が繋がれてたらこの円の内側でしか動けない。その憎む気持ちさえ手放したら自分のいのちの可能性をどこまでも広げて自由に生きる事が出来るようになるんです。

という事で、憎む気持ちというのは自分の人生を恐ろしく制限し悪くする。それを出来るだけ手放すようにする。手放すというのは理解せよという事ではないんですよ。お互いそれぞれの人間が精一杯自分なりの生き方で生きてるんだということを確認する。聖徳太子さんの言葉で言うたら『共に凡夫なるのみ』なんです。

みんな凡夫や。「十七条憲法」の一番初めに書いてある。私も貴方も全ての人は皆凡夫なんや。凡夫やからドングリの背比べ、1ミリ人より背が高い、1ミリ人より背が低い、そんなぐらいの差のものなんやから、偉そうにすることも、卑下することもいらない。

日本民族の有難いところはそこから(『共に凡夫なるのみ』から)出発してるから誰かが偉いとかいう事は無くて皆凡夫なんですよ。精一杯生きてるんですよ。そっから入るのが日本人なんです。

で、他にダイアーさんが書いてるのでは<ホテルでのトラブル>というのがあります。これはダイアーさんが有名になった後の話ですね。

プエルトリコていう国がありますね。ダイアーさんはその国へ講演旅行に出かけて午前2時3分に旅行から帰ってシカゴのホテルに到着した。お腹が空いていたから「ルームサービスお願いします」って頼んだ。そしたら「ルームサービスは午前2時までです。お受けする事は出来ません」て言われた。

たった3分ですよ(笑)。たった3分でなんでそうなのか、だんだん腹が立ってきて『よしこうなったら支配人に直接会って抗議しよう』、そういう気持ちになったんです。

それで部屋から出て廊下を歩いていた。その時にですね、自分がプエルトリコでやった講演のことを思い出した。どんな事を話したかというと、『自分が求めている事以外に頭も精力も使ってはいけない』と講演したのです。

そこで、『自分は一体何を求めているんだろうか?』と自問した。

すると、自分の中に3つの思いがあるということに気がついた。それは、

思いA 空腹なので何か食べたい。

思いB 私は不当な扱いを受けたので断固抗議したい。

思いC 私は結局空腹のまま寝なければいけないのかもしれない。

僕やったら「思いC」が一番強い気がします(笑)。断固抗議する、あんまりそういうエネルギーは僕には無いんですね。

なんでダイアーさんにそういうエネルギーがあるのかいうとね、やっぱりお父さんとの関係があって怒りの念が凄く強い。不幸な生い立ちをした人ってやっぱり不当な扱いを受けてるっていう気持ちが強いので怒りの念が強いんだと思う。だからこの「思いB」にエネルギーが集中し易いんだと思う。

空腹なんで何か食べたいっていう「思いA」と、断固抗議しようという「思いB」と空腹のまま寝なければならないという不安の気持ち「思いC」がありますよね。

自分の思いを注いだ処にエネルギーが集まります。どの思いにエネルギー集まってくるかって人の持つ性格の傾向性によって違うんですね。

そして、一番強い思いを中心にしてエネルギーがドンドン集まってくるんです。凝縮してどんどん集まってくる。そして思いの山が高くなっていって、あるラインを超えたところで、一気に現実化するんです。

だからどういう所に思いを注ぐかがとても大切なんです。私は不当な扱いを受けているって腹立ちの気持ちに思いを集めていくと、どんどん「抗議の思いの山」が高く育ってゆき、頂点がラインを超えて現実の世界にそれが現れる。そうするとホテルの中で修羅場が展開するということになる。

自分の求めていない事に頭と精力を使ってはならないのです。だから一番の課題である「空腹なので何か食べたい」という処に自分の思いを注がなければならないんです。

ダイアーさんは廊下歩きながらそのことに気がついたんだって。

『自分は一体何がしたいんかな、お腹空いたから食べたいんやな。じゃあ、無駄な事に思いを脱線させないで、その事だけに意識を集中させよう』と思い返して歩いていたら、向こうからポーターさんがルームサービスのワゴンを押しながらやってきた。「やあ」って声を掛けた。ダイアーさんはたまたまプエルトリコの講演のパンフレットを手に持ってたらしいんですね。ポーターさんが「プエルトリコに行かれたんですか」と聞いてきた。

「ええ行ってきましたよ、講演してきましたよ」

「プエルトリコは私の故郷なんですよ」とポーターさんが言ったんです。

そこで、ダイアーさんが「実は真夜中に帰ってきたんだけどお腹が空いてなんとかならないかな」とお願いしたんです。すると、「分かりました。特大のサンドイッチを作ってあげますよ。ちょっと待ってて下さいね」って言われて部屋で待っていたんです。

そしたら十数分後に特大の、ナプキンで包んだサンドイッチが届いた。オレンジジュースも二杯ついていたんです。そして、ポーターさんは「これは私の奢りです。私達の母国の人の為に講演して下さったのでこれは私からの感謝のプレゼントです」と言ったそうです。そうして空腹を満たす事が出来たんです。

やっぱり何処に思いを注ぐかですね。

野球の場合やったらまた三振しやがって、フォアボール出しやがって、そういう思いを注いでいくと、そんな「負の思い」で呪われたその選手はますます悪くなってゆく。「思い」って本当に現実を作る力があるんですよね。人間てね、神様でも作れるんですからね。

例えばね、イザナギとイザナミって、あれ「人」ですよ、人の原型。その人が国土を作り神様も作った。アマテラスとかスサノヲもイザナギとイザナミという「人」が作ったんだと古事記には書いてある。

なんでそんな事が出来るのかっていうと、人の思いには、その思いの通りを現実化する力が、モノを産み出す、いのちを宿す力があるんです。

よく神道のマニアックな人は「この神社は昔は○○て神様がお祀りされていたんだけれど、土地の権力者とか国家によってご祭神を変えられたんだ、けしからん」などという。そうかもしれん、それはそうやと思う。でもね、そのご祭神に変わった時点からその神社の神官の人達がその新しいご祭神に向かって誠実にお勤めをして、境内の掃除もしっかりして…、そういう誠意がこめられた神社であればちゃんとその神様が宿るんです、新しいご祭神が…。

だから心配いらんのですよ。今のご祭神に向って祈ればいい。マニアックな事言わないで今のご祭神に向って祈ればいい。

ただしね、日本は本当に良い国なんですよ。他国では、こんな場合は旧い神様の神殿は決定的に破壊されて跡形も無いようにされます。そこに新たに神殿を建てて新しい神様を祀るんです。

しかし、日本ではそんなことまではしない。そんな場合、必ず以前にお祀りされていた神様が境内のどこかにひっそり祀られていたりする。地元の人がこっそり祀り続けるんです。あるいは少し離れたところに旧い神様がお移りされていたりする。そういう経緯がその神社の歴史を調べてわかったら、その旧いご祭神の社(やしろ)にもお参りしてあげて下さい。凄く喜ばれて、きっと力になってくださいますからね。

それからね、神様の名前でお祈りするのは本当はちょっと失礼なんです。「天照大神様」てやるのは本当は失礼。なんでってユダヤ教なんか神様の名前すら秘密だったんでしょう。だから今では本当のユダヤ教の神様の名前はわからないんです。エホバと言ったりヤハウェと言ったり。子音はわかってるんですよ、Y.H.V.H かな。その当時の言葉は母音を書かない。子音だけで綴っていく言葉だったので実際の発音はわからない。誰にも分からなくなってしまったんだそうです。ユダヤ民族の国はいったん滅びましたもんね。だからそういう事で神様の名前で神様を呼び出して祈るのはあんまり、よくないかもしれない。

僕は、「伊勢の内宮様宜しくお願いします」。或いは「相楽(さがなか)神社(トータルヘルスデザイン本社のある土地にある氏神さま)の神様宜しくお願いします」っていう風に。なんか神社の名前でお願いする方が良いのかもしれんなあ、と最近思っています。

で、そういう風に人間には思いによって形を生み出す能力がある。つまり、現実化能力がある。神様ですら生み出す事が出来る。

じゃあ、伊勢の神様とかスサノオ命は人が生み出した神様なのか。というとそれだけでもない。なんでってその神様方の元の原型は向こうの高天ヶ原にちゃんといらっしゃる。

その原型の元の神様の『ウツシ(写し、移し)』なんです、地上に降臨されているのは。

地上で僕らが進化の過程を歩んでいる目的は何かというと、最終的には「高天ヶ原の『ウツシ』を地上に現実化すること」なんです。そのために貢献するのが、僕たちの使命なんです。

例えば地上に芸術作品があったとします。地上のすべての美なるもの、善なるものには、必ず天上界にその原型があるんです。

地上の芸術作品に比べたら、天上界のそれの相応物は地上の作品の何万倍も素晴らしい作品なんです。

それじゃあ、地上の美術作品なんてたいしたことない、鑑賞したって意味がないんかというと、そうではないんです。

僕らに本当の美的感覚があったら、地上のその作品を観る事によって天上界の原型の美術作品までアクセス出来るんです。

そのように、僕らも地上世界の伊勢の神様にお参りする事によって、天上界の伊勢神宮の原型の神殿にお参り出来るというわけです。

例えば地上に芸術作品があったとします。地上のすべての美なるもの、善なるものには、必ず天上界にその原型があるんです。

地上の芸術作品に比べたら、天上界のそれの相応物は地上の作品の何万倍も素晴らしい作品なんです。

それじゃあ、地上の美術作品なんてたいしたことない、鑑賞したって意味がないんかというと、そうではないんです。

僕らに本当の美的感覚があったら、地上のその作品を観る事によって天上界の原型の美術作品までアクセス出来るんです。

そのように、僕らも地上世界の伊勢の神様にお参りする事によって、天上界の伊勢神宮の原型の神殿にお参り出来るというわけです。

天上界にも伊勢神宮があるって知ってます?

スウェーデンボルグという人がおってですね、その方は横になって気絶した様な状態になって何日間も向こうの世界に意識が抜け出していって、そして天界とか霊界とか地獄界とかを探検して帰ってきて、それを本に書いた人なんです。

天界に行って、そこにはどんな神殿があるか調べてきたら、下のレベルの天界では石造りの神殿だった。凄く壮麗な石造りの神殿で天人たちが皆そこにお参りしている。ところが、上の天界に行くほど神殿はだんだん軽やかになり、最高の天界の神殿は木造りだったそうなんです。華美な装飾は一切ない、スッキリした簡素な神殿。それってまさしく伊勢神宮ですよね。最高天界に伊勢神宮の原型があるんですね。

スウェーデンボルグは面白い事を言ってる。

天界では何が神さまとして祀られているのかというと「霊的太陽」なんだそうです。その霊的太陽から「霊流」、霊的な流れが降ってきて、地上の人まで届いている。その「霊的太陽」から注がれている光の熱が僕らの愛になり、光の明るさが僕らの知恵になっているというんです。

天の世界の住人達は必ず「霊的太陽」の方を向いている。

そして地獄界の人達は必ず「霊的太陽」に背を向けていると報告しています。

天上界に「霊的な太陽」が存在していて、天人達は常に「霊的太陽」の方を向いているというんです。

そして天上界の「霊的太陽」は、地上界の日周運動する「自然界の太陽」と違って、移動することがなく、常に一定の位置で不動なんだそうです。

これってずいぶん窮屈ですよね、例えばこんな状態では天人さんはとても旅行なんて出来ない。常にその太陽の方に顔を向けながら移動するなんて出来ないですよね。

ところが、そんな不自由な状態にはならないというんです。

天人さんたちは、何処に行くのも自由だと言うんです。肉体を持ってる人間よりももっと自由に行ったり来たりしていると言うんです。

どういう事かというと、その天人さんがどっちの方を向いても「霊的太陽」は常にその天人さんの面前にあるんだそうです。

だから天人さんがどこに旅行しようと、その旅は必ず「霊的太陽」に向って進む歩みとなるんですね。逆に地獄界の人は「霊的太陽」に常に背を向けているから、その人がどう進もうと、その歩みは必ず「霊的太陽」から遠ざかる暗闇の方向に進む歩みとなるというわけです。かわいそうですけどね、そうなる。

でも、天人さんの心境レベルによって、「霊的太陽」に向う顔の角度がちょっとずつ違うんだそうです。最高レベルの心境の天人さんは「霊的太陽」に直面している、顔が真向(まむか)っている。しかし、天人さんの心境が劣ってゆくにつれて、顔の角度が太陽からちょっずつずれてゆく。そうすると、その天人さんの顔の輝きが最高レベルの天人さん顔の輝きに比べるとやや劣るということになりますね。斜めから太陽に光が当るのですからね。

 これが「祓詞(はらえことば)」にある「日向(ひむか)」。「日向の橘の小戸の…」とありますね、それなんです。

「天の石屋戸(いわやと)開き」の神話には、「面白(おもしろ)」という言葉も出てきますね。「白(しろ)」っていうのは「著ろ(しろ)」で、「激しい」とか「強い」という意味です。アマテラスさまが石屋戸から顔を出して、アマテラスさまは太陽神ですから、世界が一瞬のうちにパーと光り輝いた。その光を受けて神々や人々の顔が激しく輝いたというのが「面白」です、本来の意味はね。

こういう風にスウェーデンボルグが記述している最高天界の様子は、日本神道が直感的に捉えて神話の形で表現している内容と見事に一致しています。日本神道って本当に凄いものだと思います、有難いことですね。

そんなわけで、伊勢の神様にお参りする事によって天上界の伊勢神宮、「霊的太陽」に私たちは繋がることが出来るという訳です。

天照大神様は本来の御本体はあそこ(最高天界)にいらっしゃる。「霊的太陽」の本源として揺るぎなく存在していらっしゃいます。

では地上界に降りて来られているのはなんでかというと、人間が進化する為には神様の援助がどうしても必要だから伊勢にこうして降臨されているわけです。だから伊勢にお参りしたら天上界の天照大神様と繋がることが出来る。お伊勢さんは最高天の「太陽神霊」の「ウツシ」ですからね。

しかし、地上界に降臨された天照大神様は、日本民族の色んな課題や問題点もやはり「ウツシ」ていらっしゃるのです。

だから天照大神様はウツになって引きこもったり、スサノオの神様はグレて暴れたりされるという訳です。

イエス様は怒り狂って神殿内の店を破壊したり、最愛の弟子が亡くなると涙を流したり、十字架にかかって神に抗議されたりしましたね。 

イエス様は本来神様なのに、どうしてそんな行動をとられたのかというと、イエス様は最高天の神の「ウツシ」であると同時に、ユダヤ民族の持つ問題点や課題も同時に「ウツシ」ていらっしゃるからなのです。

アマテラス様もそう、日本の女性の持つ課題や問題点を「ウツシ」ていらっしゃるわけです。日本の女性の魂の質は世界で一番レベルが高いんです。

しかし、だからこその責任の重さ、抱え込むものの大きさがある。そんな重荷に押しつぶされそうになって、ついに引きこもってしまわれたというのが神話のアマテラス様なんです。

それは、日本女性の置かれた状況の「ウツシ」なんです。「天の石屋戸の神話」はまさしく日本女性の置かれた状況を反映した物語なんです。

天上界に霊的太陽が輝いていて、そこから愛と知恵の熱と光が放たれて地上界の我々に降り注がれているというだけだったら、天上界の神々は地上界の僕らとかけ離れた存在で、僕らと関わりはそんなに深くはないのです。

ところが、わざわざ地上界に降りてきて下さって、日本民族が持ってる課題もご自身で引き受けて下さり、「ウツシ」込んで下さって、そんな重たい課題克服の神話ストーリーを展開して下さって、示して下さっているから日本神道は素晴らしいんです。

世界中の神話を調べたら太陽神は男性神なんだ。なのに日本の太陽神の天照大神様は女性神で、これはおかしいんじゃないか。為政者の作為があったんではないかと発言している学者や神道家の方も結構いらっしゃいますね。でも太陽神が女性なのは、日本民族の「ウツシ」なんです。

やはり日本は女性の国なんですよ。女性が産み、女性が愛し、育んできた国なんです。だから天照大神様は女性神なんです。

今、時代は「分離の時代」から「ユニティの時代」へと向って進んでいます。「男性原理」は、「分離と力の原理」です。そういう男性原理が現代までの時代を引っ張ってきた。しかし、その原理はもう通用しなくなって来た。収拾のつかない混乱が連発している。

そんな混乱の時代を収拾するのは、「融和と愛の原理」である「女性原理」なのです。そんな「融和と愛の原理」が世界中に普及してゆかねばならないんです。そんな重要な役割を果たすのが、私たち、日本人、特に女性たちなのです。

(続く)