3216「歪んだ正義」2023.10.16 自分で自分を自分するから

https://tenmei999.blogspot.com/2023/10/321620231016.html
 
今回はいっぷくからのありがとうさんの2023年10月03日「歪んだ正義」と2023年10月04日「78円の命」の記事を紹介します。

「歪んだ正義」

ミロクの世が近い、夜明けまでの一番暗い時のせいか、心にイライラを募らせ、ほんの一時、子供を公園で息抜きさせていただけで怒鳴り散らす大人たち。

またこんなこともよく目にします。

StayHomeの普及で、休みもなく働く宅急便のお兄さん。

配達先の家の前にちょっと、車を止めただけで、 「駐車違反ではないか」と、延々と嫌味を言い放ち、おまけに説教の最中、タバコを取り出しプカプカしだす始末。

過去のパンデミックの最中、もしくは直後にも、人心が乱れ、普段の良い人が、醜い正義感を振り回す姿が見られたそうです。

今日は脳科学者、中野信子さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元

・清純な優等生キャラで売れていた女性タレントが不倫をしていた

・飲食店のアルバイト店員が悪ふざけの動画をSNSに投稿した

・大手企業がCMで差別的な表現をした

もちろん、不倫は法律上してはいけないことですし、

店の営業妨害になるような動画の投稿は刑事罰につながることもあります。

また、CMなどで特定の人たちを差別するような表現を用いることも問題でしょう。

しかし、自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、

知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、

完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまうというのは、

「許せない」が暴走してしまっている状態です。

我々は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っています。

人の脳は、裏切り者や、社会のルールから外れた人といった、

わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。

他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、

快楽物質であるドーパミンが放出されます。

この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、

罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。

こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼ぼうと思います。

この認知構造は、依存症とほとんど同じだからです。

有名人の不倫スキャンダルが報じられるたびに、

「そんなことをするなんて許せない」と叩きまくり、

不適切な動画が投稿されると、対象者が一般人であっても、

本人やその家族の個人情報までインターネット上にさらしてしまう、

企業の広告が気に入らないと、その商品とは関係のないところまで粗探(あらさが)しをして、あげつらう…

・間違ったことが許せない

・間違っている人を、徹底的に罰しなければならない

・私は正しく、相手が間違っているのだから、どんなひどい言葉をぶつけても構わない

このような思考パターンがひとたび生じると止められなくなる状態は、怖ろしいです。

本来備わっているはずの冷静さ、自制心、思いやり、共感性などは消し飛んでしまい、

普段のその人からは考えられないような、攻撃的な人格に変化してしまうからです。

特に対象者が、例えば不倫スキャンダルのような「わかりやすい失態」をさらしている場合、

そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配がない状況などが重なれば、

正義を振りかざす格好の機会となります。

<引用終了>

いじめと同じですね。

そこには、愛が、ないのではないでしょうか?

私たちを作られた神様は子供たちの誰かが、罪を犯した時や、他人の心身を蹂躙した時、

その人間を憎み、糾弾し、一瞬で地獄に落とすでしょうか?

更正の機会を与えないでしょうか?

二度と許してはくれないでしょうか?

その人を糾弾し、憎しみをぶつけた私たちは、たとえ立場が変わろうと、自分だけは決して、

そのような行為を行わない、いつも、変わらず正義の人なのでしょうか?

たとえ正義の名の下であろうと、人を憎む者は、自分自身を憎む者です。

人を憎む者の心には、憎しみが宿ります。

その憎しみの種は、だんだんと自分自身の心身や、取り巻く環境に浸透して行きます。

その結果、自分の周りの環境は、だんだんと憎しみ色に染まり、良くない出来事が続くことでしょう。

小林正観さんがおっしゃるには、憎しみの心が身体に出た場合、関節の疾患として強く表れるようです。

正義感とは、不正を憎み、正義を尊ぶ気持ちのこと。

でも、そこには憎しみの心が潜み、そこには、愛や温かさの芽はありません。

正義感の強い人は、周りの人といつか衝突することになります。

自分自身の心身も蝕みます。

その言い分がどんなに正しいことであっても、人には人の、それぞれ事情があり、

できることと、できないことがあるからです。

どんなに正しいことであっても、押しつけられたら誰でも嫌になります。

正義感など振りかざさず、自分の主張を「俺が俺が」と言い張らず、自分の生き方が温かく、

明るくキラキラと輝いていて、そこに優しさや、愛を感じる事が出来れば、

その後ろ姿に感動し、人は共感して下さいます。

北風と太陽のお話のように。

「78円の命」

2012年当時、小学校6年生だった谷山千華さんが、真っ直ぐな気持ちで作文につづった『78円の命』、胸が張り裂けてしまいそうなほどの想いが込められた作文です。

命の重さ、動物の殺処分について、書かれた作品です。

<引用開始>

78円の命

近所に捨てネコがいる。

そのネコは目がくりっとしていて、しっぽがくるっと曲がっている。

かわいい声をあげていつも私についてくる。

真っ黒なネコだったので、魔女の宅急便から『キキ』と勝手に名付けてかわいがった。

人なつっこい性格からいつの間にか、近所の人気者になっていった。

子ネコだったキキも2年たった頃にうれしい出来事があった。

赤ちゃんを産んだのだ。

でもキキは捨てネコだったので、行き場所のない子ネコたちを近所の鈴木さんが預かってくれた。

毎日のように子ネコを見に行って、まるで自分の飼いネコのようにかわいがった。

ある日、突然子ネコの姿が見えなくなった。

そこで鈴木さんに尋ねてみると、「○○センターに連れて行ったよ」と、うつむきながら言った。

私はうまく聞き取れず、何を言っているか分からなかったが、たぶん新しい飼い主が見つかる所に連れて行って幸せに暮らせるんだなと思った。

次の日、学校でこのことを友達に話したら「保健所だろ?それ殺されちゃうよ」といった。

私はむきになって言い返した。「そんなはずない。絶対幸せになってるよ」

殺されちゃうという言葉がみょうに心にひっかかり、授業中も保健所の事で頭がいっぱいだった。

走って家に帰ると、急いでパソコンの前に座った。

『保健所』で検索するとそこには想像もできないざんこくなことがたくさんのっていた。

飼い主から見捨てられた動物は日付ごとにおりに入れられ、そこで3日の間、飼い主をひたすら待ち続けるのだ。

そして飼い主が見つからなかった時には、死が待っている。

10匹単位で小さな穴に押し込められ、二酸化炭素が送り込まれる。

数分もがき、苦しみ、死んだ後はごみのようにすぐに焼かれてしまうのだ。

動物の処分1匹につき78円。

動物の命の価値がたったの78円でしかないように思えて、胸が張りさけそうになった。

そして、とても怖くなった。

残念ながら、友達の話は本当だった。

調べなければ良かったと後悔した。

現実には年間20万匹以上の動物が、こんなにも悲しい運命にある事を知り、さらに大きなショックを受けた。

動物とはいえ、人間がかけがえのない命を勝手にうばってしまってもいいのだろうか。

もちろん人間にも、

どうしても動物を育てられない理由が

あるのは分かっている。

一体どうすればいいのか分からなくなった。

キキがずっと鳴いている。

大きな声で鳴いている。

いなくなった赤ちゃんを探しているのだろうか。

鳴き叫ぶその声を聞くたびに、パソコンで見た映像が頭に浮かび、いてもたってもいられなくなり、眠れない夜が続いた。

キキのかわいい声もいつの間にかガラガラ声に変わり、切なくなった。

言葉が分かるなら話をしたい。

私はキキをぎゅっと抱きしめた。

最近キキの姿を見かけなくなった。

もしかしてキキも保健所に連れて行かれたのかと、一瞬ひやっとした。

それから1週間後、おなかに包帯を巻いたキキを見かけた。

鈴木さんが、これから赤ちゃんを産めない体に手術をしてくれたのだ。

私は心から感謝した。

この先キキも赤ちゃんも、捨てられずにすむという安心した気持ちと、

鈴木さん家のネコになってしまったんだという、さみしい気持ちとで複雑だった。

正直、とてもうらやましかった。

命を守るのは私が考えるほど簡単なことではない。

かわいいと思うだけでは動物は育てられない。

生き物を飼うということは1つの命にきちんと責任を持つことだ。

おもちゃのように捨ててはいけない。

だから、ちゃんと最期まで育ててやれるという自信がなければ飼ってはいけない事を学んだ。

今も近所には何匹かの捨てネコがいる。

私はこのネコたちをかわいがってもいいのかどうか、ずっと悩んでいる

<引用終了>

・最後まで責任を持って育てる大切さ。

・動物の命の重み。

・殺処分の残酷さ。

小学生が感じた数々の想いが、痛いほど素直に伝わってきます。

同じ命なのに、わずか78円という値段がついてしまった動物たち。

残酷な現実に胸が痛みます。

谷山さんが書いた作文は、愛知県豊橋市の「話し方大会」で最優秀作品に選ばれたそうです。

今では、同市の道徳の授業に使われるなど、多くの子供たちに読まれているそうです。

また、『78円の命』を絵本という読みやすい形にすることで、

・多くの人に殺処分について知ってもらおう。

・殺処分をなくしていこう、

というクラウドファンディングのプロジェクトも立ち上がっているそうです。

日本では、毎年10万匹以上も殺処分されている現状があります。

動物を飼われた方なら、お分かりのように、彼らは、本当に優しい心を持っています。

言葉がしゃべれない分、人間のように、頭脳が発達していない分、神さまは、彼らに純粋な心を授けてくださったのでしょう。

その純粋な心が私たちの心を癒してくれます。

その美しい心の波動で、認知症の方や、心を閉ざした方の、心が溶かされるのだそうです。

症状が改善するのだそうです。

私たち人間側の身勝手でこの純粋な心を、もてあそぶことは許されません。

同じ地球で、同じ時代に、神さまから授かったイノチを持つ者同士

暖かな心、優しい気持ち、そんな心で接したいものですね。

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2023年10月15日日曜日
3215「神さまの領域」2023.10.15
 今回はいっぷくからのありがとうさんの2023年10月02日の記事を紹介します。

「神さまの領域」

ブログの記事の内容のせいか、読みにに来られている方の多くは、幸せで悩みなんて一つもない・・そういう方々ではなく、

今まさに、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、悔んでいらっしゃる方が多いようです。

ですが、それは「裏返しの宇宙構造」、神さまの視点から見れば本当は、大変ラッキーで、

神さまの贈り物のうち、先に届く、「悲しみ、苦しみ、苦労」を、今現在 頂いており、

それが過ぎれば、その次の贈り物

「幸せ、喜び、楽しみ」が、もうすぐ頂けるという状況でもあります。

神々の恩寵は、二段構え、セットで来るからです。

神様はお金や健康といった目に見えるものではなく、心の成長だけを見ているからです。

私たち人間は、悩みや苦しみの中でこそ、人の心の痛み、苦しみ、悲しみを理解することができ、人々に寄り添い生きていくことができます。

そして、深く深く、人生について、生命について神について、考えることをします。

目の見えない友達のために、できること・・・・

そのような辛く見える経験をする事で、何もない日々の平凡の暮らしの中にこそ、

幸せがあったと、気づけるからです。

既に、必要なものは、全て、神様が準備してくださっていたことに、気づけるからです。

人間にとって、一番大切な心「ありがとう」、感謝の心が芽生えるからです。

まだ神さまの贈り物を受け取る心の準備ができていなければ、

決して「悲しみ、苦しみ、苦労」を、いただくことはありません。

自分の手には負えない現実を目の前にして、お辛い気持ちもよくわかります。

ですが、その状況の中にこそ、神々は現れてくださいます。

どうぞ、勇気と希望をもって、進んでください。

今日ご紹介するのは、小林正観さんが、どなたかの相談を受けたときのお話です。

就職活動や結婚についての相談や、

「末期ガンで余命3ヶ月なのですが、どうしたらいいでしょう?」

という相談を受けた正観さんは、毎回次のような回答をされたそうです。

「今、『自分がどういう状況に置かれているのか』について、感想を持つ必要はないし、

評価評論は、いりません。

今、自分がやるべきことは、自分の目の前にいる人を大事にすることです。

やるべきことがあったら、それをやればいい。

結婚も就職も死も、今、自分の目の前にないのだから、考えなくてよいのではありませんか。」

また正観さんは、三浦綾子さんのエッセイ『生きること思うこと』を読んで、

「そこから先は、神の領域」という言葉に心惹かれたそうです。

「もし、ガンになった人が、『ガンと闘うぞ』と決めたとすると、

神の領域に踏み込んで、闘おうとするから、つらい。

仮にガンになって、『3ヶ月、4ヶ月で死ぬ』と言われたら、

『そこから先は神の領域と、腹をくくる』という考え方もある。」

三浦綾子さんは、結核、ガン、パーキンソン病を患われたそうですが、

「これにはどういう意味があるのだろう」などと考えることはなく、

「そこから先は神の領域」という思想をお持ちだったから、

心穏やかに生きていくことができたのだと思う・・・

そう正観さんは書いておられます。

さらに正観さんは、

「『なんで私がガンになったのか』と嘆いている間は、

『死に向かって一直線に全力疾走している』 ことを覚えておいてください。

『私は悪いことはしてこなかったのに、なんで病気になったのか。

どうしてこんなひどい目に遭わなくてはいけないのか』と、その現象を否定した瞬間に、

全速力で死に向かって走り出すように思います。

なぜ、その病気になったのか。

それは、『すべてを受け入れる (感謝する) 』ための訓練なのかもしれません。

命をかけて、その訓練をしている、と解釈することもできそうです。」

また

「すべての人が、学校教育や社会の中で

・人と闘うこと、

・人より抜きんでること、

・人と争うこと、

・人と比べること

を教わります。

でも、

・大病をした、

・大事故に遭った、

・災難・トラブルに巻き込まれた、

・寝たきりの親の介護を何年も続けた…

など、

普通の人が、一般的に『苦労』『大変なこと』といわれる出来事に身を置くと、

全く違う価値観で生きることができるようになります。

この人たちは、『普通に生活できることが、どれほど幸せか』ということを知っています。

辛い経験をしたことで、

・今のままでも、幸せである

・自分も相手も、今のままで100点である

ことに気づいたのです。

幸せとは、今、足りないものを探して、手に入れること ではなくて、

自分がすでにいただいているものに感謝し、自分が恵まれていることに気がつき、

嬉しい、楽しい、幸せ…、と生きていることだと仰います。

皆さんは、

・不本意なこと、

・悲しいこと

・辛いこと

が起きた時に、

不平不満、愚痴を口にしてはいませんか?

あの時、ああすればよかった、こちらの方を選べばよかった、

そのように、自分ではどうしようもないことに、

「神さまの領域」のことに対し、メソメソ悔んだり、後悔して、自分を責めてはいませんか?

ですが、今まで、ご自分で判断して、選択してきた道は、無意識の内に、全部、ベストな選択をしてきたのです。

過去を振り返って、「あぁ、あの時失敗した。 恥ずかしい」

そんなことを思うことはありませんか。

ですが、それらを超えてきたからこそ、今の自分があるのです。

その経験が、絶対に必要だったのです。

今の自分は、過去の自分よりも、最高・最善の自分です。

いままで多くの経験をしてきました。

過去に自分で選んだ道・方向は無意識の内に、私たちが生まれる前に決めて来た

道を選んでいる (選ばされている) からです。

病気や、ケガ、失業や、失恋、離婚など、全ての全てが「神さまの領域」のことです。

私たちが、どうこうする余地は 1%もありません。

そして「神さまの領域」とは、私たちを、苦しめたり、悲しませたり、付き落としたり 見放したり、そのような 冷たい領域ではありません。

一見、辛く、悲しい道に見えて、全ての全てが、私たちの魂を光輝かせるための、温かで、無条件の愛に満ち溢れた領域です。

きっと、それはこの世を去り、亡くなる時に、気付かれることでしょう。

今は、分らないかもしれません。

それは、ブッダが悟った「縁起の法則」が厳然と働いている領域です。

そのような世界の中で、そのような地球で。

「神さまの領域」、神さまの意思を知る由もできない私たち人間に、できることは、

まさに、自分の目の前にいる人を 大事にすることです。

それこそが、このような環境に私たちを置いて下さった神さまが、一番望んでいらっしゃること・・・

置かれた場所で咲きなさい、 と言うことです。