いよいよ第10節です。
「十二因縁」のお話です。
日本は仏教国ですから、仏教からの教えが身に沁みますね。
それで、何故私たちは生まれ、そして何ゆえに大変な
「生老病死」を体験するのかをとく「十二因縁」を
ご紹介させていただいて、この旅の心の終わりとさせていただきます。
ただこの因縁説はやはりまだ嘘のようなこの世界で
起きる出来事の克服法としか映らないかもしれません。
佛があるとの基準ですから、ただの一面かも。
もし古代イスラエル的また縄文的意識でこの国が
満たされれば、きっと世界の見本となって世界再生の
先導役になることが出来るのでしょう。
世の光ですね。
この人生の心の旅を通じて感じたさまざまから、
一人でもやるんだという強い意志が生まれました。
どんなことがあっても成し遂げる。
ご縁の皆さんと共に静かに歩んでいくことが出来ますように
祈ります。
現実は影。
意識は永遠で無限。
ここへ来ていただいて、言葉を追ってくださったご縁ある
多くの皆様に感謝申し上げます。
ありがとうございました。
「十二因縁」
人間とは浅ましいもので、現象に執われ易く、
「何事も目に見なければ、信じようとしない」
孔子曰く、
「人、遠き慮り無きときは、必ず近き憂い有り」
目の前の現世利益ばかりに囚われて、遠い将来、すなわち来世の
一大事を解決しなければ、近い将来、必ず後悔する時が来る。
死んでしまってから、後悔しても始まらない。
「備えあれば憂いなし」である。
深謀遠慮、即ち、遠い先のことを考えた周到綿密な計画は、
必要なことである。
仏教においては、「死ぬということを自覚する」ことが
第一歩である。
人間は、死に直面して初めて、「真の生の意義」を
知りうるのではないだろうか。
短い人生ゆえに、自分のなすべきことを、真剣に考え、
永遠の生命をもとめるのではあるまいか。
道元禅師も、
「生を明らめ、死を明らむるは、佛家一大事の因縁なり」
と言われている。
しかし、何故、我々は死ぬのであろうか。それは、「生」、
つまり、生まれてきたからである。では、何故、
生まれてきたのであろうか。
それは過去世に於いて、その因縁を作ってきたからである。
それを仏教では「十二因縁」と説く。
つづく・・・