光文書
(ヒカリモンジョ)
Vol.800+30+68
桓武天皇の復活
この二千二十四年、ここへ到る一連の情報系があるので、その時間軸の説明からはじめることにします。
はじめにこの情報の結論をいってしまうと、明治時代に創建された平安神宮に、正しく、桓武天皇と孝明天皇が神霊として立たれたら、いま進行中の戦後政党の崩壊を通り越えて、東京政府の時代が終わることのはじまりの合図となります。
これらの一連の出来事のはじまりは、私が年頭に、奈良の橿原神宮への参拝を依頼していたある人物から、拝殿での報告のほかに、宝物館に展示してあった明治天皇と昭憲皇太后から贈られた刀剣が、異様な波動を出していたということが伝えられたことでした。
それとは別に、この年頭より私の頭の中に、豊臣時代の大阪城と現在の大阪城の間にある、ある種の秘密と、大阪という地場の異変を伝える情報が伝えられ続けていました。そして、まだ松の内というタイミングで、シンロジーラボの主宰者から、桓武天皇が状況と事情の説明に、私にコンタクトするという連絡を受けることになりました。
平安京を作ったとされる桓武天皇は、在位二十四年を超えた西暦八百六年に、この世を去られ、当初予定された地では加茂神の祟りがあるとされたため、伏見の地に葬られましたが、その後改葬され、九百二十七年の延喜式によれば、東西十一町(千二百メートル)南北十一町という広大な陵墓であったとされます。現存する世界最大の陵墓とされる仁徳天皇陵のサイズが八町とされているので、それより三十七パーセントも巨大なものです。
その陵墓の場所が、なぜか鎌倉時代には不明となり、その後、豊臣秀吉の伏見城の築城エリアが、この桓武天皇陵を含んでいたため、完全に歴史から消えてしまったのでした。
秀吉の朝鮮出兵は西暦の千五百九十二年であり、この伏見城の築城開始は千五百九十四年とされます。
桓武天皇は、最澄や空海などの仏教の最新情報を積極的に受け入れた人物で、平安京は、それらの仏教的結界にも守られていました。その中で、京の南東伏見にあった桓武天皇陵と北西にあった嵯峨天皇陵は、重要なポイントであったはずですが、不思議なことに、その嵯峨天皇陵も歴史の中で不明になっており、いま天皇陵とされているものは、幕末という特別な時代に定められたものです。
江戸幕府は、伏見城を廃城とし、明治政府は、この地に、明治天皇と昭憲皇太后の陵墓を作ることになります。たぶん、ここからの信号が、刀剣から発されていたのです。それと同時に、私が大阪城に興味を向けざるを得なかったのは、もともと、戦前の大阪城のエリアにあった陸軍工廠の地場のエネルギーが、豊臣家滅亡に到る大阪夏の陣の記憶に繋がるものであり、それを何とかしないと、日本の未来が暗いままというイメージがあったためなのです。それらのことが、今回の桓武天皇の復活による情報開示によって、明らかになりました。
日本の国是は、何度もお伝えしているように、原則、鎖国です。
それを破って、国外進出を目指したのは、豊臣の時代と明治政府以降の時代です。
織田、豊臣の時代に、キリスト教の宣教師によって、対外進出の政治的動機や世界観が伝えられたのは事実でしょう。その最初の動きは、秀吉の死によって終りましたが、次の明治政府の動きは、日清、日露、朝鮮併合、満州国建国というように、昭和二十年の敗戦に到る一連のストーリーとなります。そして、このタイミングで、嵯峨天皇と桓武天皇という平安京の秘密を作った存在が復活したということは、実は、世界から狙われていた平安京を守る、あるいは取り戻す動きに向って、日本の歴史が新たに作られることを意味しています。そして、どうやら、この動きは、地球規模の大変動と結び付いていると同時に、宇宙的な情報開示にも関連していると考えられるのです。どうやら、これらの事象が、日本の覚醒のための知の入口として用意され、死んだら終わり文明というものから、日本人が次の文明を担う動機付けとなるよう準備されたものだとやがて明らかにされるはずです。
これによって、歴史が勝者によって作られる時代が終わり、精神界にある真実にアクセスすることができる人間によって、新しい人間の時代がはじまるのです。冒頭にも記したように、明治からの日本の終わりは、この情報開示によって確定したと、私は考えています。
神紀四年(二千二十四年)一月二十五日 積哲夫 記