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3994「「心」三題1」2025.8.24
今回は立花大敬さんのしあわせ通信の2025年2月15日の記事「「心」三題」を2回に分けて紹介します。
「「心」三題」
日本的霊性の復活は、江戸時代末期からスタートしました。
それ以来、各段階に三名ずつ主要人物が出現されて、それぞれの役割を分担されつつ日本的霊性の発展に寄与され、現在は第3ステージまで進んでいます。
大敬は只今、第3ステージから第4ステージへの引き継ぎ役をつとめています。
第1段階を担当されたのは、黒住宗忠(黒住教祖)、中山ミキ(天理教祖)、川手文治郎(金光教祖)の三名です。
黒住教祖は「日の担当」、天理教祖は「月の担当」、金光教祖は「地の担当」という風に役割分担されて日本的霊性発展のために寄与されました。
三者いずれも「心」を大切に説かれていて、日本的霊性発展のためのメインテーマが、実は「心」を育てることなのだということがよく分かります。
ここでは、この三者が「心」をどのように捉え、説いておられるのか知って、私たちの人生の歩みの参考にして頂きたいと思います。
(1)黒住教祖の「心」
「心」の重要性を最初に発見されたのは黒住教祖です。
34歳の時、両親が相次いで亡くなられて傷心の末、ついに病(肺結核)となり、医師もさじ匙を投げ、占いの結果も「必死」と出て、覚悟を決めて死を待たれていたのです。
そうして、「自分は死んだら神となって、世の病に苦しむ人たちを救いたい」と心に誓われました。
その時、ふと思い付かれたのは、「自分は父母の死を悲しんで<陰気>になったために大病となったのだから、心さえ<陽気>になれば病は治るはずだ。せめて残る息のある間だけでも、そのように心を養うのが孝行である」と思い定められ、<有り難いこと、面白いこと、楽しいこと>だけに心を向けて心を養っていると、不思議なことには、その時を境として、病が次第に軽くなったのです。
そして、35歳の冬至の日に日拝した時、太陽の陽気が胸に入って、腹に届き、そこから全身に浸透し、なんとも喩えようのない、さわやかなよい気分になったのです。「笛を吹き、糸を調べ、金をたたき、鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」ほどの楽しさで、身心とみに快活となったとあります。
教祖はこの体験を<天地生々(てんちせいせい)の霊機(いきもの)>を自得したと表現しておられます。
そして、新生された教祖からは、死に瀕した際に誓われたように「人の身心の病いを癒やす神的な力」が発現するようになりました。
この体験のポイントは、「心」が<陰気>になったから病気になった。「心」を<陽気>にしたら病いが消えたというところですね。
つまり、<心によって、身体の状態や運命や住む世界を変えることが出来るんだ>という黒住教祖の発見、気づきが、以後の日本的霊性発展の土台となりました。
黒住教祖は、人の「心」は、天照大神(日の神)ご自身の「御心」を分与されているのだとされます。この分与された「心」は日の神さまからのレンタカー(自分を目的地まで運んでくれる乗り物)で、自分の所有物ではないのです。だから、汚したり、傷つけたりしては申し訳ないことなのです。
それに、この車にはハンドルもブレーキもなくて、自分の「思い」だけで操縦しなければならないので、操縦がとても難しいのです。
けれども、そんなコントロールしにくい車を何とか工夫して、操縦出来るようになってゆくと、人の「心」の性能は天照大神の「御心」のそれに近づいてゆくようになりますね。
ということは、その人の魂も次第に天照大神さまのそれに近づいてゆき、天照大神さまと「生き通し」になってゆくということで、最後はついに「ひとつ」になる。そうして、私たちは高天原という魂の故郷に復帰して「一体」となることが出来るのです。
では、天照大神さまから、学びのためにお借りしている「心」が持っている本来性とはどういうものなのかというと、日の神様の特性である「陽気・生々・創造」がそれなんだよと言われます。
つまり、カラッと明るくて、温かくて、生き生きしていて、創造性に富んでいるのが「心」の本来性なのであるとされるのです。
ですから、その本来性を邪魔せずに、そのまま発揮出来るようにさえすれば、それでいいわけです。
そんな「心」の本来性「陽気・生々・創造」を覆って発動出来ないようにしてしまうのが<陰気>です。
「心を傷つける」と、「心」が<陰気>になってしまい、生命力が減退し、おっくうになり、身心の病になったり、不幸な出来事を引き寄せてしまいます。
では、どうしたら「心を傷つける」ことになるのかというと、たとえば「腹を立てること」、「物事を苦にすること」などです。「心」が傷つくと、陰気になり、ケガレ(気枯れ)が生じます。
「心」を<陽気>にすれば、身心の病は治り、運命は改善されてゆき、自分の能力が一番発揮出来るような場、イノチの可能性を広げてゆける役割に導かれます。
「心」を<陽気>に戻してゆくには、「心を養う」ことが必要です。
「心を養う」には、「よきことがあれば有難いと楽しみ、悪いことある時は、これも修行(学び)と受け止められれば、何事も一切修行をもれることがなくなります。その余のことは万事有難いばかりです」と語られているような物事の捉え方をすることです。
そのような捉え方が出来るためには、その前段階として、まずアタマを休めて「無心」に近づく必要があります。
つまり、アタマのモヤモヤで「心」を覆ってしまわないこと。そうすれば、自然と「陽気・生々・創造」という「心」の本来性が発揮出来るようになるのです。
「姿なき心一つを養うは かしこき人の修行なるらん」という黒住教祖のお歌があります。
ですから、坐禅は有難いのです。ただ坐るだけで、アタマの努力は何もしていないのに、自然と無心に近づき、「心が養われてゆく(充電されてゆく)」のですからね。
さらに「心を養う」には、神様に「オミキ」をお供えすることが必要です。
「オミキ」とは、「有がたキ また面白キ 嬉しキと みき(神酒,三キ)をそのふぞ信成りけれ」とある、「三つのキ」のことです。
ものの見方を味方にするのです。日常生活で、この「三つのキ」を常に見いだして、「心」に刻んでゆけば、やがて「有難いもの、面白いもの、嬉しいもの」が現実化して、そんな嬉しい訪れにあなたは取り囲まれるようになります。