4368「青空ひろば」2026.9.2 自分で自分を自分するから

4368「青空ひろば」2026.9.2
今回は大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。

イノチの学校より54 2026.08.11 ~ イノチの学校55 2026.08.12

禅の公案解答集より抜粋

<「路逢達道」(無門関 第36則)>

五祖法演禅師が弟子たちに問われた。

「道で達道の人に出会ったら、言葉で応対してもダメだし、沈黙で応対してもダメだ。さて、どのように応対すればいいのか答えよ」

達道の人とは悟りきった人ですね、人生の歩み方をマスターした人のこと。

そういう人に出会ったらどのように応対しますか?

先に人物紹介をしておきます、五祖法演禅師この方は凄い人だと思いますね。

中国宋の時代の人で、公案禅を大成した人。白隠さんの大師匠にあたりますね。

素晴らしいお話を沢山残しておられます。

師として優れ、弟子に公案集『碧巌録(へきがんろく)』の編者である圜悟克勤(えんごこくごん)さんがいます。

ここからの法系が日本臨済宗に繋がっているので、白隠さんにも繋がっているのですね。

公案の解答にいきましょう。

(   )は「二つ」を作る

高・低、上・下、軽・重、大・小、尊・卑、損・得,悟り・迷い

これは(アタマ)ですね。

アタマは二つを作る、頭の働きは「分別識」と呼ばれています、仏教ではね。

分は分ける、別も別れる、そういう分別の働きをするのがアタマですね。

イノチはそんな二つ以前のものですね、分けられ別れる前のものがイノチ。

その時その場でイノチから何が飛び出すのか?自分の知ったこっちゃありませんね。

知らんよ!何が出てくるかわからんよ!

道で悟りを開いた人と出会った時に何が出てくるか?

そんなもんアタマで決める必要なんかない。その時にその人がやってきた時に自然に、その人の悟りに触発されて出てくる何かがあるだろう。それに任せるだけだ!

というのが大敬の解答ですね。

思い切って飛び出してゆく、言い放ってゆくことにしよう

その時、その場、その人にとって一番適切な行動や言葉が飛び出して驚くはず。

だからその、イノチには二つ、ニというものがない。いつも「一」や!というのがこの公案ですね。(完)

イノチの学校より53 2026.08.10

長沙禅師の言葉:

「尽十方界、沙門の家常語」

聞いただけではよくわかりませんね、沙門というは語源はシャーマンです。

シャーマニズムという言葉があったりしますね、沙門の語源はそこから来ていて、お坊さんのことです。

意味は、

「日常生活の何気ない言葉のやりとりで、君の心は宇宙いっぱいに広がるんだよ」

ということ。

常不軽菩薩(お釈迦様の前世と言われている)がしたように、出会う人出会う人に

「貴方は仏さまです」と礼拝する。

挨拶は同じことなんです、出会う全てに

こんにちは!こんにちは!こんにちは!って挨拶していくことによって、自分の心を世界大に広げていく。

囲いを外していくことが出来る。

それを言っておられるんですね。

イノチの学校より47 2026.08.04 ~ イノチの学校より52 2026.08.09

挨拶とはどういうことか?

サッカーの岡田武史さんはこのように言っておられます。

『挨拶とは、僕は君という人間が僕の<心(世界)>に存在することを認めますよ、受け入れますよ、許しますよ。という相手に対する合図。』

挨拶はそういうものだよ、

こんにちは!と挨拶するということは

君(挨拶された方)が、僕の世界に存在することを僕は認めていますよ。OKですよ。ということだと岡田武史さんは捉えておられるんですね。

Aという人がBという人に挨拶したとします。

A→B。 挨拶が返ってこないとしますね。

そうするとA君は、B君が自分の心の中に居ることを認めているけれど、

B君は、A君が自分の心の中にいることを認めていない(拒絶)。そういう事になります。

それで、こういう事を繰り返していけばA君は、次第にB君に挨拶しなくなりますね。

そうなると、A君の心の中からB君の存在は排除されます。

心の中に存在することを認めなくなり、許さなくなっていくのですね。

では、これが学校のお話だとしますね。

B君がクラスの全員に挨拶しないとします。

B君はクラスの全員からその存在が認められなくなり、いない者と見なされる(無視される)ようになっていく。

B君としてはそうですね。

ではここで考えてみましょう。A君は自分から挨拶をしていた、そして挨拶が返ってこないから無視する様になった。

これで問題はないでしょうか?

A君のB君に対する態度の問題点を考えてみましょう。

A君がB君に挨拶しても返事が返ってこない→A君は次第にB君に挨拶をしなくなる→A君の「心」からB君の存在が消えて行く。

そうすると、A君の「心」はそれだけ狭くなり、A君の「徳(心のエネルギー)」は減少します。

元々はB君に届くくらい心は広かったのですね、それが狭くなる。

心の広さと、心のエネルギーは比例するので狭くなれば心のエネルギーも減少しています。

それでは徳とはなんでしょうか?

サンスクリット語でグナ、「使用可能な心のエネルギー」のことを言います。

心のエネルギーが多いと、こうありたいという想いがよく、早く、順調に叶うようになります。心は「タクシー+運転手」、徳は「燃料」。

心さんは目的地まで運んでくれるタクシーであり運転手さんなのですね。徳はその燃料なので、燃料がないと走れませんね。

心のエネルギーは心の広さに比例し、潤いと温かさにも比例する。広い心の人は、徳エネルギーが高く、狭い心の人は徳エネルギーが少ない。

高徳の人、薄徳の人なんて言ったりもしますね。

高徳の人:心のエネルギーが高いレベルにある人で、人も世界も、この人の言うまま、思うままに、なぜか素直に動いてくれる。

舜帝は南を向いて座っているだけで、自然に世界が治まっていった。という逸話はこれをあらわしていますね、高徳な人。

座っているだけで国が、世界が治まったというんですから、凄い人ですね。

薄徳の人:その人が目指すものがどんなに正しくても、人や世界はその人が提案する通りになかなか動いてくれない。

そして不徳な人というのもいますね。

不徳な人:「心のエネルギー」がマイナス状態なので、その人が提案する意見がどんなに正しくても、なぜか人々や世界に反発を誘い、攻撃されてしまう。

おりますよね、意見が正しくても皆から反対されてしまうという人。

挨拶のお話を続けますね。

曹洞宗という宗派の家風にこの様なものがあります。

「書を馳せて家に到らず」

手紙を書きます、出します、返事が返ってきません。

ああ返事返ってこないから書かないでおこう、じゃなくてまた手紙書きます、出します、返事が返ってきません。

それでも書きます、出します、返ってきません。それでもひたすら書き続ける、書を馳せて到らず、これが曹洞宗の尊い生き方としている。

だからA君の挨拶でいうと、

こんにちは!って挨拶してもB君に無視されたら、もうアカン、無視するからB君には挨拶せん。

というのじゃなくてまた次の日も気分を変えてひたすらこんにちは!と言ったら、

もしかしたらB君も、ひょっとしたらある日気分がよくてこんにちは!って返してくれるかもしれない。

ならないかもしれないよ、ならないかもしれないけれどなるかもしれないから。

ひたすらそうして働きかけていくという態度が、曹洞宗の家風。

尊さとしているものですね、そういう在り方もあるんですね。

臨済宗は颯爽としたところがあるけど、曹洞宗はコツコツとやっていく良さがありますね。

面白いのは曹洞宗のお寺の数が一番多いんですよ、浄土宗や浄土真宗じゃないんです。

なんでかいうとどんな山の中でも、曹洞宗のお坊さんはなんとか切り開いてコツコツやっていくんですね。そういう心の姿勢なのですね。

では挨拶について最後にまとめておきましょう。

挨拶はgive & give!:挨拶は見返りを求めて行うものなんだろうか?

give & take.?

いや、give & give !

すべての存在に挨拶出来るようになれば→すべての存在が僕の「心」に存在することを許せる、受け入れられる、というようになったということ

「心」が世界大に広くなった→つまり、「徳(心のエネルギー)」が増大した

想いがすぐに叶うようになり、人が自分の意見に耳を傾け、受け入れて協力してくれるようになる。

全てのものにこんにちは!といえたら、心の領域はそれだけ広がっているんですね。

世界いっぱいに挨拶できるなら、世界いっぱいに心は広がって、かよい合っているんです。

世界全部が心の中にすっぽりおさまるんですね。

挨拶ひとつでそれはかなうことなのです。

(完)