「一本のえんぴつから」 赤塚仁英様から

一本のえんぴつから
             赤塚仁英  
 2005年8月、スペースシャトル・ディスカバリーに乗り込んだ野口聡一飛行士は、直径1.8㎝、長さ23㎝、重さ200gのオモチャのような小さなロケットを取り出した。
「50年前、日本の宇宙開発史はこのペンシルロケットから始まったのです。」
無重力の船内で、そう話す野口飛行士の手を離れペンシルロケットは宙に浮いた。
かつて水平に発射されたペンシルロケットが、50年後、地上100㎞まで飛行距離を伸ばした瞬間であった。
一本のえんぴつで宇宙へと続く物語を書いた独創の人、その名を糸川英夫という。
 


60年前、我が国の戦争が終わった。
敗戦後、ポツダム条約によって日本は飛行機の製造はもちろん研究も禁止された。
パイロット達から「天才設計屋」と呼ばれ、隼、鍾馗といった名戦闘機を生み出した糸川英夫は絶望の淵に落とされた。
「糸川=飛行機、移項すると糸川ー飛行機=0。自分の存在価値が無くなり自殺することばかり考えていましたね」
そんなときに救ってくれたのは、友の頼みごとだったという。
「脳波の測定器を作ってくれないか」
頼まれごとに応えて糸川は、日本で初の脳波測定器を作った。この脳波の研究が認められ、糸川はアメリカから招かれシカゴ大学で講義をすることになる。
そして、そこで啓示を受け「日本でロケットをやろう」と決心することになるのだから人生というのはわからないものだ。
いきさつを超えた目に見えない大きな力に動かされてドラマは進んでゆく。
そのとき糸川四十一歳であった。
私が、その糸川博士と出逢ったのは1989年7月、私は二十九歳、糸川先生が七十六歳の時だった。
友人の紹介で、ロケット博士と会えると聞いて私は、東京・世田谷、糸川先生のお宅に向かった。
緊張とワクワクが混ざり合った感じを今も思い出す。
糸川先生の家に着くと広い部屋に十数人が車座に座っていた。
一部上場企業の社長、中小企業の経営者、近所の米屋の女将さん、家具屋の親方、学生、様々な人が座っていた。
教科書は旧約聖書だった。
その夜のテーマは、「モーゼに学ぶリーダーの引き際」
糸川先生は、こう言われた。
「聖書は、宗教の経典ではありません。人類に古くから伝わる真実の書物です。私たちが学ばなければならない史上最高のリーダーはモーゼです。40年間も荒野を彷徨い二百万人もの人々を導いた物語の中に、現代の我々が生きるヒントがたくさんあります」
一人一人順番に「出エジプト」の話を読み、糸川先生が解説をしてくださった。
生まれて初めて読んだ聖書は実に面白かった。しかし、私は驚いた。ロケット博士が何故聖書?
そんな疑問など吹き飛ばすように、四千年前の物語を現代の世相に映し返す糸川先生の講義は、私の魂の深い場所に染み込んでいった。
食事をご馳走になり、その夜先生のお宅に泊めていただいた。
なにやら興奮して眠れぬ明け方、ふと玄関先を見ると奥様が私たちの靴を磨いてくださっているではないか。
「聖書の教えは、自分がされて嫌なことは人にしてはならない。嬉しかったことは人にしなさい。ということに尽きると思う。」
糸川先生は、昨夜そう仰った。
糸川英夫先生をわが人生の師匠と仰ごうと決めた。師匠は弟子を選べない、弟子は師匠を選べると勝手に決めて押しかけた。
週末東京まで行き、糸川先生に学び、明け方津に戻るという暮らしが続いた。
五ヶ月ほど経ったある日、糸川先生は私に「あなたとは長い付き合いになりそうですね」と言って、驚くべきことを言われたのだった。