生誕の場所を選ぶ [ 精神世界 ]
最近は、自宅で出産する人も減り、病院や産院で出産する人が増えた。
イエス・キリストは、馬小屋で生まれた。
アッシジのフランチェスコ(中世イタリアの人で、カトリック中興の功労者とも言われる人)の母ピカは、あまりの難産だったので、通りすがりの巡礼者の進めるままに、馬小屋に出産の場所を移した。すると容易に出産できた。
聖徳太子の母后が宮中を巡り、たまたま厩(うまや)の下に至った時に、産気づき、聖徳太子を生んだ。
インド古代の聖者クリシュナは、なんと牢屋の中で生まれた。
聖者が自分の転生プランを選ぶ時に、わざわざこう言う場所を選んでいる意味は、人生のスタートから、人間というものの虚無、不条理を味わう生活をしましょうというサインということになろう。
人生にはいろいろな不愉快なことがあり、思いのままにならないことかある。理不尽な目に会わされることがある。そういったことがすべて、人生の真相なのだとして、それを誠実にありのままに見つめていく。
彼ら、聖者候補達は、生誕の瞬間からこうした出産場所を選ぶことにより、必ずや真正の絶望に出会うことを仕組んでいる。そして人生に対する根本的な絶望がなければ、本当の光明に出会うこともないことを知っているがゆえに、片親だったり、粗末な生誕場所という境遇を選んで来るのである。
今の時代は、病院のような立派な設備の整っているところで生まれる人がほとんどだが、出できた社会は、家族の中でも孤独を感じるような、見知らぬ人ばかりなる冷たい世の中。
現代日本では、ほとんどの人間にとって、皆他人のことに無関心で、隔離されたような人間関係から始めなければならないという点では、馬小屋で生まれて、貧しい境遇の生い立ちとなるのと同等の環境なのかもしれない。
ただ現代人は、真正の絶望に出会うほどの情熱と気力を持ち合わせていないとその先には行けない。
「アヴァンギャルド精神世界」