「沙門空海 唐の国にて 鬼と宴す」 夢枕 獏 著

17年間に渡って連載された夢枕獏さんの
大河小説です。
後に映画化もされています。

「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」

Oさんからのお勧めで、是非に読んでくださいと
ありましたので読ませていただきました。

本は中国の唐に遣唐使として渡った空海の物語です。

空海はおよそ20年間の予定で唐に留学し、
密教ほかを学ぶ予定でした。

しかしながら20年以内で国内に戻った場合は
通常は打ち首です。
それを留学費が無くなったとの理由で奏上し
帰国を許されます。
僅か二年の唐の滞在でした。

真実は何があったかは、はかり知れませんが
その後の空海の日本国内での行動から
もしかして空海は日本国の秘密までも知ってしまった
可能性があります。

日本とユダヤのハーモニー

物語は玄宗皇帝と楊貴妃の物語を主に
人間の想念の根深さを抉り出します。
大変にワクワクする展開です。

それはさておいて、もともとの空海の唐への
留学の目的は密教を学ぶことでした。
そして青龍寺の大阿闍梨である恵果に会い、
密教のすべてを伝授してもらうこと。

当時恵果の肉体の様子はあまり芳しくなく
弱っていました。

空海と恵果の初めての出会いの場面。
恵果は空海の姿を見て、
「大好 大好」(タアハオ タアハオ)と言葉を
発します。

「大いに好し 大いに好し」 と言ったのです。

そしてその後弱った体で、空海に密教のすべてを
わずか半年で伝えます。
青龍寺に10年20年といた他の僧たちを
さしおいてのことでした。

その後空海は青龍寺の大阿闍梨となります。

すべてを伝え終えた恵果と空海の会話です。
その時恵果にのこされた肉体はあと三日と
なっていたのですが・・・。

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12月-。
恵果は病床にあった。
ある日空海は、恵果に呼ばれた。
「お呼びでございますか」
空海は、病床の恵果の前に立って言った。

夜である。
灯火が、ひとつだけ灯っている。
恵果と空海と、ふたりだけであった。
寝床の中で仰向けになっている恵果の
枕元に立って、空海は恵果の顔を見つめている。
恵果は清冽な夜の大気を静かに呼吸している。

「空海よ」
低い静かな声で恵果は言った。
「はい」
空海もまた、静かな声でうなずいた。
「そなたに、今宵最後の教えを授けよう」
「はい」
空海はうなずく。
「金剛、胎蔵、両部の灌頂ではない。
結縁灌頂、受明灌頂でもなく、伝法灌頂でもない。
これより我が説くことは、それらのどれでもないが、
それらのどれよりも貴重な教えじゃ・・・」
恵果は、空海を見あげ、
「いま、わたしは教えを授けると言うたが、
これよりわたしが授けようとすることは、
教えずともすでにそなたが皆承知している
ことばかりじゃ」
そう言った。
「しかし、言うておく。それはつまり、わたし自身の
口から出ずる言葉なれど、そなたがわたしに言う
言葉でもある。
空海よ、わたしがそなたに教えるということは、
わたし自身がそなたに教えを乞うということでもある。
このことの意味も、すでにそなたはわかっていよう」
「はい」
空海はうなずいた。
「空海よ、そなたは、ここで学んだものの全てを
捨てねばならない。この意味がわかるなーー」
「わかります恵果様・・・」
「心は、深い・・・」
「はい」
「心の深みに下りてゆき、その底の底の底ーー
自分もいなくなり、言葉も消え、ただ、火や、水や、
土や、生命そのものが、もはや名づけられぬ元素として
動いている場所がある。
いや、もはやそこは、場所とすら呼べぬ場所だ。
言葉で名づけられぬもの。言葉の無用の場所。
火も、水も、土も、自分も、生命も、わかちがたくなる
場所にたどりつく。そこへゆくには、心という通路を
通って降りてゆくしかない」
「はい」
「それは、言葉では教えられぬ」
「はい」
「わたしは、いや、多くの者たちが、それを汚してきた。
言葉によって、知識によって、儀式によって、書によって、
そして教えによってーー」
「はい」
「これらすべてを捨てよ・・・」
「はい」
「そなたは、捨てよ」
恵果は、つぶやき、そして眼を閉じて、
静かに大気を呼吸した。
再び眼を開き、
「しかし、言葉は必要じゃ。儀式も、経も、教えも、
道具も必要じゃ」
恵果は言った。
「この世の者の全てが、そなたのようではない。
そうではない者のために言葉は必要なのだ。
言葉を捨てるために、あるいは知識を捨てるためにこそ、
言葉も知識も必要なのだ」
「はい」空海は、ただ、うなずく。
恵果の言うことは、よくわかっている。
すでに、全ての灌頂を受け終えた瞬間から、
空海にとっては、あらゆる儀式も教えも
必要のないものとなっている。
ただーー
日本国において、あるいはこの唐の国において、
人々に密の教えを広めるためには、言葉も儀式も
必要なものだ。
人は、己の足で、頂まで歩んでゆかなければならない。
そのための杖も、沓も、食べ物も、衣も、まだ頂へ
向かおうとする修行者のためには必要なのだ。
「片足は、聖なる場所へ、片足は俗なる場所へーー
そうして、二本の足で己という中心を
支えねばならぬ・・・」
そう言って、恵果は眼を閉じた。
「窓を開けよ・・・」
恵果は眼を閉じたまま言った。
空海は、言われるままに、恵果の枕元に近い窓を
開けた。十二月の冷気が、部屋に入り込んできた。
月光が恵果の上に差している。
「空海よ、そなたにもはや授けるべきものはない」
月を見ながら、恵果は言った。
「お身体に障りませぬか?」
空海は、恵果に言った。
「かまわぬ。この冷たさが心地よい。」
恵果の言葉ははっきりしている。
「空海よ、そなたに出会えて、ほんとうによかった・・・」
「わたくしも」
空海は言った。
「わたしは、じきに逝くことになるであろう。
そなたに出会えぬままであれば、未練が残ったやも
しれぬが、今はそれもない。」
恵果の視線が、空海に戻ってきた。
「死は、恐ろしゅうはない。死の間際に、
多少苦しむことはあるやもしれぬが、だれもが
いずれは通る道じゃ、それくらいの我慢はできよう」
恵果の言葉を、空海はただ黙って聴いている。
「生も死も、ひとつのものぞ。生まれ、生き、死ぬーー
この三つそろうて初めて生きるということが
できあがっている。生まれることも、死ぬということも、
生きることの違うかたちの現われにすぎぬ」
「はい」
「空海よ、疾く倭国へ帰るがよい。その機会あれば
逃すな」
恵果の慈愛に満ちた言葉であった。
やがて、空海は、日本へ帰ることになる。
それがいつであるにしろ、恵果の伝えてきた
密の教えは、空海と共に海を渡ってしまうことになる。
恵果がここで、行くなと言えば、その時その言葉は
空海の重荷になる。
それを察して、恵果が空海に言ったのであった。
それが空海には痛いほどにわかる。
「ありがとう存じます」
眼頭に熱いものを覚えながら、空海は言った。
「よい月じゃ」
恵果は言った。

     第四巻 文中より
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