仁徳天皇の「炊煙」

今の世を なんと思し召すか仁徳様は。
後世の理想と仰がれた仁徳天皇の善政
 仁徳天皇にまつわる話を少し詳しくのべた理由は、その天皇即位というめでたいことに貢献した外人までも「和歌の父」と尊ばれるほど、この天皇が上代の日本で特別尊敬されていたことを強調したかったからである。仁徳陵が特別に大きいのも、このように考えると自然である。仁徳天皇が古代から特に尊敬されたのは、善政を行い、これが後世の理想と仰がれるに至ったからである。頼山陽もそこに注目した。
 仁徳天皇の四年の春二月、高殿に登って国の中を望見なさったが、炊事をする煙が見えなかった。
 「これはきっと人民が疲弊しているからであろう。これから三年間は年貢などを免除してやって、百姓(国民)の生活を楽にしてやろう」と言われた。これが、
 煙未だ浮ばず。天皇愁ふ。
 という一行の意味である。そのため天皇の着物や履物がやぶれてきたが、そのままにした。食事も倹約して、垣根がこわれても修理させず、屋根がいたんでも葺(ふ)き換えさせなかった。雨風が隙間から入って衣服などを濡らし、屋根のやぶれたところからは星が見えるようになった。しかしその後、気候も順調で、三年の間に百姓は豊かになった。そうすると百姓の間にも御代(みよ)を称(たた)える声が起った。
 今や高殿に登ってみると、いたるところから炊事の煙りが立つようになっていた。それで皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)に、「自分はもう豊かになった。これでもう心配することはない」と言われた。これが、
 煙已に起る。天皇喜ぶ。
 の意味である。ところが皇后にはその意味がわからない。皇后にしてみれば、およそ不可解なのである。
 「垣根がこわれても修理できず、屋根も破れて衣類が濡れる有様なのに、どうして豊かになったなどと言われるのですか」ときかれた。すると天皇はこう答えられた。
 「そもそも君主というものがあるのは、百姓のためなのである。したがって君主は百姓を本とするのである。昔の聖なる君主は、百姓が一人でも飢えたりこごえたりすれば、それを自分の責任として反省したというではないか。百姓が貧しいということは、自分が貧しいということである。百姓の富はとりもなおさず自分の富である。百姓が豊かであって、君主が貧しいということはないのである」
 一方、民衆の方ではみんな豊かになり、家にも貯えができて、落とし物を拾う人もなくなった。
 「自分たちがこんなに豊かになったのに、宮殿の修理もしないでいては天罰が当る」と人々は申し出たがなかなか天皇はお許しにならなかった。ようやく治世の十年の冬十月に宮殿を造ることになったが、この時は、上の方からうながさないのに老若を問わず民衆が自発的に材料を選んだりして、日夜を問わず競争するようにして働いて造り上げたと言う。これが次の二行の背景である
 漏屋敝衣(ろうおくへいい)赤子(せきし)を富ましむ
    子富みて父貧しき此の理無し