「怒り」 自分で自分を自分する 2/12

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今回は「いっぷくからありがとう」さんの2021年02月07日の記事を紹介します。

怒る人々

夜が明ける前の闇が、最も暗いと言われます。

今、地球の波動が2極化して分かれ

・心の大切さ、周りの人々との調和を一番に考える人と

・自分さえよければ、お金さえあれば。。

そのような人に2極化してきているといわれますが、自分さえよければ。。。の人々は、自分の心の内の良心が、常にシクシクと痛んでいますから、余裕がありません。

人を非難し、貶め、中傷し、デスることで無意識にマウンティングし、相対的に自分の地位や環境を安泰にしようとします。そして、常に心に怒りを抱えています。常に、怒りを振りかざし、ちょっとしたことで、正義感の隠れ蓑をまとい怒りを爆発させます。

 

社会で何か事件が起これば、自分だけは正義の立場に立ち、その事件の被告を追及し、憎しみをバラまく。表面的に見れば、誰しも忌み嫌う事件の加害者、その人をどんなに憎み、

正義の剣を振りかざそうと、誰も文句を言わないことでしょう。

付和雷同し、煽る人も出てくるでしょう。誰かを悪とみなし、激しく追及することで、自分自身の留飲も下がることでしょう。

でも、そこには、愛が、ないのではないでしょうか?

私たちを作られた神様は子供たちの誰かが、罪を犯した時や他人の心身を蹂躙した時、その人間を憎み、糾弾し、一瞬で地獄に落とすでしょうか?

更正の機会を与えないでしょうか?

二度と許してはくれないでしょうか?

その人を糾弾し、憎しみをぶつけた私たちはたとえ立場が変わろうと、自分だけは決して、そのような行為を行わない、いつも、変わらず正義の人なのでしょうか?

たとえ正義の名の下であろうと、人を憎む者は、自分自身を憎む者です。人を憎む者の心には、憎しみが宿ります。

その憎しみの種は、だんだんと自分自身の心身や、取り巻く環境に浸透して行きます。その結果、環境は、だんだんと憎しみ色に染まり良くない出来事が続くでしょう。

小林正観さんがおっしゃるには、憎しみの心が身体に出た場合、関節の疾患として強く表れるようです。

それでは、今日のお話は「正義感の落とし穴」ということで、まじめな人、一途な人が陥り易い落とし穴について書きたいと思います。

小林正観さんの著書よりご紹介します。

<引用開始>

真面目な人ほど、正しさを追い求めてしまいます。その結果、敵意と憎しみが湧いてくるというように、人間の心が創られているのかもしれません。

社会を四十年観察してきた結果、真面目な人ほど、人生を暗く辛いものにしていることが読み取れてきました。

心の勉強をしていった結果として、いろいろなことを学び、心正しい人になり、心正しい行動をするようになっていきますが、どの人も九十八点まできたときに陥りやすい罠があります。

ある大きな災害のときのこと。自分の家や土地すべてを売り払って数千万のお金を作り、被災地で炊き出しをした農家の方がいらっしゃいました。ボランティアで一日三食、合計二千四百食を毎日作り続けました。この話を聞いた人たちも募金をして、半年ものあいだ、炊き出しを続けることができたそうです。

半年後、仮設住宅などができ、必要がなくなったので、家族のもとへと帰っていきました。

この話を聞き、日本各地の商工会議所などから講演依頼がくるようになりました。

そこで、このような話をされたそうです。

「あまりにも悲惨な状態だったので、家や土地を売り、乗り込んでいきました。いま聞いている皆さんは、会社があり、社員がいて、預貯金もある。そういうものを全部売り払って、なぜ同じことをしなかったのですか?」

この方は、心温かくて困った人のためにやっていこうという、神のような心を持った方でしたが、ですが、この一言を言った瞬間、会場はシーンと静まりかえったそうです。

そして、同じ主催者から、二回目の講演を頼まれることはありませんでした。

自分は喜ばれるように生きているのに、周りの人は呼応した生き方をせず、自分勝手に生きている。「あの人がそう思うのが許せない」という、正義の「敵意」「憎しみ」の小さな芽は、誰の心の中にも宿っています。他人を憎む「心」そのものが、争いの種になっています。

他人や世の中をどうするかより、自分の中の敵意と憎しみをなくし、太陽のように明るく生きていくこと…。

よい仲間と明るく楽しくいたいのならば、目の前の人に対して

・自分と同じように振る舞え

・同じ価値観になれ

と強制するのをやめる。よい話を聞いて、周りの人にたくさん広めようと思った瞬間、よからぬものが入り込んでいる可能性があり、運とツキが逃げていくようなのです。

人間は、ろくなものでもなくて、大したものでもないと思うことで、心地よい方向にいけるのかもしれません。

<引用終了>

本当に、正義感が強く、良いことをしよう、他人の役に立とうと、一所懸命な人、ある種のストイックな人、修行僧のような人が、非常に陥り易い罠です。

自分は、これだけしているんだ。どうして貴方は同じようにしようとしない?

自分の価値観を人に押し付け、強制する事・・

どんなに自分が良いと思うことをしようと、それを他人に強制したりしては、何のための良き行動か解りません。むしろ神様から遠ざかる行為です。

マザーテレサが仰るように、私達が、誰か人にした事、それは、本当は人ではなく、神様にしたことです。神様 対 私達のできごとです。ですから、それを恩に着せることも、自慢する事も、他言する事も必要ありません。

ましては人は、その人に一番適した道のりを、その人のペースで進んでいます。その人に対して、如何に自分が正しいと思ったことであっても、押し付けては台無しです。

正義感とは、不正を憎み、正義を尊ぶ気持ちのこと。でも、そこには憎しみの心が潜み、そこには愛や温かさの芽はありません。

正義感の強い人は、周りの人といつか衝突することになります。自分自身の心身も蝕みます。その言い分がどんなに正しいことであっても、人には人の、それぞれ事情があり、できることと、できないことがあるからです。

どんなに正しいことであっても、押しつけられたら誰でも嫌になります。

正義感など振りかざさず、自分の主張を「俺が俺が」と言い張らず、自分の生き方が温かく、明るくキラキラと輝いていて、そこに優しさや、愛を感じる事が出来れば、その後ろ姿に感動し、人は共感して下さいます。北風と太陽のお話のように。

貴方は、ご自分の主義主張を人に押し付けてはいませんか?

頼まれてもいないのに、人の生き方に口をはさんではいませんか?

人の生き方を、良い悪い、高い低いで測り、ジャッジしていませんか?

その正義感の底に、憎しみの心は潜んでいませんか?