「因果を超えて優しさと強さ」2021.3.3  自分で自分を自分する

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今回は「いっぷくからありがとう」さんの2021年02月27日の記事「因果を超えて 」と2021年02月28日の記事「優しさと強さ」を紹介します。

因果を超えて

最近は、思考が現実化するのが早くなったといわれます。これは心の状態が、現実に目の前に具現化されるのが早くなったと同じ意味です。

心の状態は、単純ではなく、今世に置いて、自分で意識できることだけではなく、魂は永遠ですから、過去の色んな人生を経てきて、染みついた魂のクセ神我(しんが)を包み隠している、

・包身(ツミ)-本来の光り輝く神様と同じ姿の自分自身を隠してしまうもの

・氣枯(ケガレ)-神様のご神気の枯渇

によって、その種子が、いつ芽を出そうかと潜んでいます。

何か自分のやったことに対して、自分の思ったことに対して、直ぐに、しっぺ返しや、反応が現れるということは、それだけ、

・現在の地球自体の波動レベルが上がり

・体主霊従から霊主体従の 魂重視の時代に変わりつつあること

・自分自身の、魂の成長が進み、因果律による反応を受け止めても、

今の自分であれば大丈夫、 それを研ぎ石として更に、魂を輝かすことができると神さまが判断して、現象を起こしてくださったからです。

自分の魂の進化が進まないうちは、その反応や現象、出来事に耐えられないし、耐えられたとしても、そこから

・何故そうなったのか?

・自分の心のどの部分が、その現象を起こしたのか?

理解することもできないし、そこから教訓を得ることもできないので、現象や反応は、まだ先延ばしにされます。

心の状態が現実化する。これはブッダの説いた因果律、まいた種は刈り取らねばならない・・ と同じことですが、このことは、バチでも何でもありません。

全ては神様の私たち人間に対する深い愛から発生しています。

現象が現れた、例えそれが、自分にとっては、逃げ出したく、できれば避けて通りたい出来事であったとしても、神様が、それを起こるのを「善し」としたから起きた出来事です。

私たちは、そこから逃げない限り、また一つ、ツミ(包身)を一枚、心から剥がし、光り輝く、もともとの神様の輝きを取り戻すことができます。

しかし、せっかく、神様が、心の状態を現象として見せてくださっても目をそらし、逃げたり、他人のせいにしたり、見なかったことにする、、そうなると、その現象は無駄になってしまいますから、再び、宇宙を巡り、さらに強力になり、再び、機が熟した時に、神様が私たちに運んできてくださることでしょう。

自分にとって嫌な現象が現れた時は、実は大きなチャンスの時です。

神様が、「今こそ、それに気づいて解消しなさい」そんな時だからです。

逃げないで、正面から受け止め、受け入れれば、一気に、嫌なことではなく、魂を輝かせてくれる素敵な出来事に変わることでしょう。

最初の一歩、受け止める、受け入れると決心することは、「よし、変わろう」と決心することは、大きな勇気がいるかもしれません。

今迄、魂にとって、そこが弱点だったから、現象が起きているのですから。ですが、その時、私たちが決断することができれば、一気に神々の喜びとともに、問題は解決してしまうことでしょう。神々を含め自然界から最高のサポートを得られることでしょう。

この見える世界も、見えない世界も全て私たちの心が作り出しています。その心が、本来の神様と同じ輝きを取り戻せることであるのなら、神々は、どんなことをしても、その大きな私たちの勇気ある決断を後押ししてくださることでしょう。

そして、その決断をした瞬間に私たちの魂の、輝きがまた一段と増します。

優しさと強さ

三浦綾子さんという作家がいました。

三浦さんと言えば、人はどのように生きたらいいのか。生涯をかけて問い続けた作家です。

旦那様も、もう亡くなりましたが作家の三浦光世さん。優しい方でした。重病で何年も寝たきりだった三浦綾子さんと結婚されました。

 三浦さんは北海道に生まれ育ち、平成11年、77歳で亡くなりました。デビュー作は『氷点(ひょうてん)』。TV化もされました。

さて、彼女の回想録で、お父さまとの間で、こんなエピソードを語っています。

病床にあった若い三浦さんが、誰かの不正に、大変怒っていました。三浦さんにとってみたら正義の怒りです。自分は正しいのです。

「自分が正しく、相手が間違っている。怒るのはもっともなこと・・」という義憤の念に駆られてのことでしょう。

ですが、それを見たお父様が、「綾子や、そんなに怒るものじゃないよ。誰にも間違えることはあるし、たまたまそうなってしまっただけかもしれないのだから」・・

そう仰ったのです。

要するにお父様は、正義を振りかざした怒りは、たとえ自分が正しかろうと、相手も そして自分も傷つけてしまうから、そう、怒りなさんな・・と言ったのでした。

さて、ブッダが生前こんなことを言いました。嘘をつけないような人になっては いけない優しさは真実に勝るつまり、ブッダの仰りたかったことは相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、真実よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。

 同じく、こうも仰りました。

捨戒の法 

ブッダは言った。

戒律を破るとき、仏教を辞めたと言って、戒律に違反した行いをなし、その後もう一度仏門に入ると言って戻って来て良い。

 

この意味は、ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。そして、酒を飲んだり、戒律を破る。その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。そして温かい目で人間を見ていました。決して過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。人を追い詰めることはなさいませんでした。

 ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。

 そして人間の弱さも、ちゃんと理解していました。その弱い人間にこそ、寄り添っていました。人間の過ちを裁くのではなく、慈悲の心で許し、辛抱強く見守っていました。

いくら自分が正しいと思っても、相手が間違っていると解っていても、そのことで相手をやりこめ、追い詰めることは、調和という意味では良くないのかも知れません。

 相手をやり込めた!! そう思っても、必ずそこにひずみが発生します。一見、やり込めて、勝った・・ と思われるような状況になっても、必ず反転します。

自分基準の「正義」は、人にとっても同じ「正義」では決してないからです。

「無名戦士の祈り」にもありました。。

 大きな事を成しとげるために強さを与えて欲しいと神に求めたのに

謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった

強い、弱い、正義、非正義、豊かさと貧困、健康と病弱は一瞬にして反転します。それらを全てひっくるめ、清濁併せ飲み人間としての大きな優しさを、身に着けたいものですね。

 優しさと、強さと同じ意味です。

人に優しくなるためには 自分が、強くならなければならないのかもしれないですね。