神の使者から奇跡の道へ その108~判断はどのようにして放棄されるのか

「判断はどのようにして放棄されるのか」

判断というものも、世界によって全面的に誤解されている。
それは実際に叡智と混同され、真理の代替とされている。

この言葉の用い方によれば、ひとりの個人が「良い」判断と
「悪い」判断をすることができ、彼の教育は前者を強化し、
後者を最小限にすることを目指している。

叡智とは判断することではない。
それは判断を放棄することである。

すべての孤独や喪失感、過ぎゆく時間や
募りゆく失望、むしばむような絶望や恐怖、
こうしたすべてが、判断から生じたのである。

「判断はどのようにして放棄されるのか」