中江藤樹は故郷に戻り、父の目指した「処士」の
道へと歩き始めます。
まず武士の魂と言われる剣を脇差とともに、
始めての出会いからすぐに同志というか、お弟子に
なった馬方に頼みます。
藤樹は「すべてお酒を買ってきてください」と依頼します。
「?」マークの馬方は、剣を10両で売り払い、
半分の5両で酒を買い、半分は生活費にとそのまま持参します。
実はこのように行動した馬方がのちの勘違いの話の
主人公となるのです。
名は又左衛門と言いました。
藤樹は農業はせず、このお酒の量り売りを生計の
柱にします。
売り方が少し変わっているので村人の評判を呼び
たくさん売れるようになるのです。
その売り方とは、
藤樹はお酒を買いに来た村人に質問します。
「今日は朝からどれくらいの働きをしましたか。?」
すると村人は今日は朝早くから畑に出て夕方まで
働きづめでした。と言いますと、
「ではあなたには二合です。」と言って
お酒を売ります。
今日はお昼からこれこれのことをしましたと
聞きますと、
「ではあなたには今日は一合です。」
今日はなんだか働く気がせず一日ゴロゴロしていました。」
だと、
「ではあなたには今日は売れません。」
と言って帰してしまいます。
このような売り方がおもしろく、村人はこぞって
藤樹の酒を求めるようになります。
さて後に「藤樹書院」と名付けられることになる、
実家での塾の最初の塾生は四人と妹です。
馬方の又左衛門、同じ馬方である
七兵衛、そしてやはり馬方の与六、
さらに藤樹の妹婿である義弟の小島甚之丞の四人でした。
藤樹書院での最初の講義の題は「厩火事」です。
論語の中にあるお話です。
童門冬二さんの「小説 中江藤樹」からの転載が随所に
続くことをお許しください。
「文章の意味は、孔子の家の厩が火事になりました。
役所から戻ってきた孔子がまず聞いたのは、だれも
怪我をしなかったかということでした。
そして論語では、孔子は馬のことは聞かなかったと
書いてあります。
孔子がいかに人間思いかということを語った話です」
「どう思いますか?」
と与右衛門は皆に尋ねます。
七兵衛が「馬はどうなったんです?」
と聞いた、与右衛門は答えずに微笑した。又左衛門の
仲間の与六がぼそっと言った。
「人間もだが、馬も気になるなあ」
「なぜ孔子って人は馬のことを聞かなかったのかなあ」
七兵衛もそういった。
さすが馬方だけあって、まず馬のほうが心配になるらしい。
与右衛門は聞いた。
「あなたたちは、やはり馬が気になりますか?」
「そりゃあ気になりますよ。わたしたちは馬方ですから」
七兵衛がそういった。みんな笑った。与右衛門は
大きく頷いた。
「そこが大切なところです」
そういって、
「孔子は聖人ですから、確かに人間を大事にするのは
わかります。今までの解釈では、孔子が馬のことを
聞かないで人間のことだけを聞いたことに感動し、
さすがは孔子は立派だと説明されてきました。
わたしはそうは思いません」
与右衛門はそういい切った。
目が輝いている。
中略
与右衛門は又左衛門に声を掛けた。
「はい」
又左衛門はなんでしょうか。?
というような視線を返した。
「あなたならどうします。?」
まず人間のことを聞きますか。
それとも馬のことを聞きますか?」
「そりゃあ、馬のことを聞くに決まっていますよ。
なにしろわたしたちにとって、馬は大事な商売道具ですから」
「そうだとも」
脇から与六と七兵衛が共感の意を示した。
与右衛門はにっこりわらった。
「それが正しいのです。人間はその時いた場所と、
その時の立場によっていろいろな行動を起こします。
ですから、厩が焼けた時に馬を大切にして、人間を大切に
しなければそれは間違いだとか、あるいは厩には馬だけが
いたのか、それとも馬の世話をしている人間もいたのか、
その辺を確かめないでいきなり、孔子が人間のことだけを
聞いたのは正しくて人間思いだ、孔子は立派だと言い切るのには
ためらいがあります。普通なら、まず馬の心配をするのが
当然でしょう」
中略
みんなが若い与六をからかっている。
「どうしました?」
与右衛門が穏やかな笑顔を向けた。与六と七兵衛は恐縮して
頭を縮めた。しかし与右衛門が、
「話してください。今の厩の火事に関わることなら、
わたしもあなたの考え方をお聞きしたいのです」
といった。脇で甚之丞と妹が顔を見合わせた。
さっきから話しを聞いていて。与右衛門の講義ぶりに
異常な関心を示した。甚之上と妹は、
(兄さんの教え方は、他の学者先生とは違う)と思ったからだ。
仕方なさそうに七兵衛がこっちを見ていった。
「与六は、このあいだ女房を貰ったばかりなのです。
ですから、わたしは今、おまえだったら馬よりも
まず女房のことを心配するだろうな。とからかったのです」
与右衛門は笑い出した。
七兵衛も与六も救われたように笑った。
又左衛門は分別ありげに、そんな二人を穏やかな笑顔で
見ていた。
「与六さんどうですか?」
与右衛門は聞いた。与六は赤い顔をしたまま。しかし
ポツンとこういった。
「七兵衛さんがいったように、わたしならまず女房のことが気になります」
「いいお答えです」
与右衛門は頷いた。与六はちょっとびっくりしたような
表情で与右衛門を見返した。与右衛門にはわかっていた。
(この人たちは、いつも他人から否定されてばかりいる。
だから、たまたま自分のいったことや、おこないが人に
認められると、嬉しいのだ)
与右衛門は講義を始めた時から
(自分は師ではない。集まる人々と共に学ぶのだ。
だから、討論を大事にしよう)と心を決めていた。
(転載終了)
藤樹は書院で講義をしましたが、師と生徒は共に
学ぶものと心を決めていました。
さらに人は「時・処・位」すなわち、時と、おかれた
環境と、立場によってひとつの現実を見てもさまざまな
意識を持つ。
だからその人との違いを受け入れて、誰でもがもっている
心の鏡を互いに磨いていこうではないかと提案したのでしょうか。
この最初の講義のあと、藤樹の家の前の小川で事件が
起きます。