「竹のものがたり」 その3~鯉と盆栽

故郷で学問を民衆とともに学び始めた藤樹は
昔母に言われた掃き掃除を思い出します。

家の前の掃き掃除を毎日毎日朝暗いうちから始めます。
そして村のこととて、隣の家は遠いのですがそこまでの
道や隣の家の前まで掃除をします。

ある朝、道を掃き終わったかれは、じっと門の前を
流れる溝の水を眺めます。

そこに馬のいななきと共に、又左衛門がやってきます。

藤樹は又左衛門に、この溝のきれいな水が
このままではもったいないので、魚を飼おうと
思っていること、さらに流れの中に盆栽をおこうとも
考えていることを伝えます。

そしてそのことで塾に入る前に、魚を見たり、
盆栽を見たりして心が和むでしょう。と語ります。

又左衛門は藤樹の話を聞いて、腿をバンバンとたたき、
それはいい、その魚と盆栽のことはわたしに任せてくださいと、
言い残し仕事に急いで向かいました。

その夜又左衛門が知己の漁師加兵衛と義弟の小島甚之丞と
ともにやってきます。

漁師の加兵衛はすでに3尾の鯉を持ってきていました。
「鯉というのは生命力がしたたかでしてね、濡れた紙に
くるんでおけば、三日でも四日でも生きているんです」といった。

しかも鯉は流れに離しても決してある程度以上は行かず、
逃げないことも告げた。

その後すぐに、家の前の流れに鯉を離した。

翌朝、藤樹がいつものように箒を持って門の外に出てみると、
溝の前で、盆栽もしているからいくらでも持ってきますと
昨夜言っていた義弟の小島甚之丞がしきりに作業をしていた。
近寄って覗くと、水の中に木の台を二つ作り、その上に盆栽を
乗せていた。

藤樹は聞いた。
「こんな立派な盆栽、盗まれることはないですか?」

「盗まれると思いますよ。鯉はもう盗まれました」

藤樹はびっくりして溝の中を覗き込んだ。
鯉はいなかった。
昨夜のうちに誰か盗んでいったのだ。

「この村は決して極楽ではありません。おにいさんが願う
桃源郷でもないのです。おそらくこの盆栽も盗まれることでしょう」

さらに「村で盗みがなくなるような学問を、ぜひおにいさんが
おしえてやってください」と続けた。

夕暮れになると漁師の加兵衛がやってきた。
「鯉を持ってきましたよ」
藤樹はびっくりした。
「昨夜の鯉は盗まれてしまいました。不行き届きですみません」

「いいんですよ。鯉はまだまだ沢山います。誰でもあの鯉を
見れば欲しがるのは無理ありません。この鯉もまた盗まれるかも
知れませんが、そうなったらそうなったで、また持ってきますよ」

翌朝、藤樹はまだ夜が明けないうちに起きて溝に行った。
そして、
「あっ」と声を上げた。
盆栽は二つとも消えていた。覗くと鯉もいない。
両方ともまた盗まれてしまったのである。

「参ったな」藤樹は低く声を上げた。
「盗まれましたか?」
急いでやってきた甚之丞がいった。
「そうだと思って、これ持ってきました」
甚之丞は持ってきた二つの盆栽の鉢を掲げて見せた。

その晩の講義、憤る生徒の前で藤樹は言った、

「わたしのせいです。なぜなら鯉を飼ったり盆栽を置いたのは、
わたしの家の門前だからです。
わたしの徳がまだ溝の鯉や盆栽に伝わっていないのです。
あるいは門前にまでそれが及んでいないということでしょう。
ですから鯉や盆栽を盗む人にとっては、盗みやすい雰囲気が
あるのだと思います。それを盗みにくいようにするには、やはりわたしが
もうすこし、時間をかけて学習しなければなりません。
どうかそうさせてください」

以下「小説 中江藤樹」から転載

「地域の人々」

深更。どこから現れたのか、与右衛門の家の前に近づく
二つの人影があった。門前の溝の前に立つと中を覗いた。
そして、

「いない」といった。
「いない?」
もう一つの影が聞き返す。
「いないよ」
「鯉はいないのか?」
「いない。盆栽もない」
「ちっ」
影は舌を鳴らした。
「どういうことだ?」
「毎晩鯉と盆栽が盗まれるから、さすがに腹を
立てたのだろう」
「ここの学者先生は、そんなことはしないと思っていたが、
案外けちな男だな」
二人はそんな罵り声をあげて、低く笑った。

「無駄骨か」
「この分だと、もう鯉も盆栽も駄目だな」
そんなささやきを交わした。この時、

「お待ちなさい」
門の脇から声がした。二人はびっくりした。
「何だ?」
と身構えた。影はその場を動かずにこういった。
「お願いです。その溝から鯉と盆栽を盗まないでください」
「なんだと?おまえは一体だれだ?」
ぎくっとした二つの影がそう投げ返すと、門脇の
陰の声はこういった。
「わたしはとなりの万木村の漁師で加兵衛といいます。
この溝に毎晩鯉を運んできた漁師です」
「なんだと」
二人の影は顔を見合わせ、ちっと舌を鳴らして
低い笑い声をあげた。門の脇から加兵衛が前へ出てきた。

「なんだ?」
影はびくっとし、身がまえた。が、加兵衛は土の上に座り、
ピタっと手をついた。そして二人に向かってこう続けた。

「鯉は中江先生のお考えでこの溝に入れたものです。
盆栽は中江先生の義理の弟さんの小島甚之丞さんが、
自分で丹精したものを台をつくって、溝に飾ったものです。
中江先生が何より楽しみにしておられます。

それは先生ご自身の楽しみではなく、溝の縁を通る人々が
楽しめる、とお考えになったからです。
お願いです。二度と鯉と盆栽をもっていかないでください。
鯉が欲しければ私の生け簀に来てください。
ただで差し上げます。
盆栽もあなた方に差し上げるようにわたしから
小島甚之丞さんに頼みます。
鯉と盆栽がなくなると、中江先生が何よりも
お悲しみになるのです。
わたしは中江先生の悲しい顔を見るのが辛くて、
耐えられないのです。
中江先生を悲しませないでください。
お願いです。
このとおりです」

加兵衛は泣いていた。
泣きながら精一杯頼んだ。

「うるせえな」とか、
「そんなに向きにならなくてもいいじゃねえか」
などといっていたが、しまいには黙り込んでしまった。
二人とも加兵衛の誠意に打たれた。

やがてどちらともなくいった。
「すまなかった」
「鯉と盆栽は返すよ」
「そんなことしなくてもいいです。お持ちになった鯉と
盆栽は、そのままにしてください。でもこれからは絶対にここの
鯉と盆栽には手を付けないでください。
中江先生を悲しませないでください」
加兵衛はもう一度繰り返した。
「わかったよ。二度とここには来ない」
「二度と盗まないよ」
二つの影はそういって、すごすごと去って行った。

二人の姿を見送りながら加兵衛は立ち上がって、
衣類についた土を払った。
嬉しそうに笑った。
加兵衛は大きく安堵の息をつくと道に出て、自分の家に
向かって歩き始めた。

与右衛門の家の敷地内には、溝に近いところに大きな藤の木が
ある。その藤の木の幹から、まるで木の皮が剥がれるように
人影が身を離した。中江与右衛門だった。
与右衛門は、加兵衛が去った方角をじっと見つめながら
呟いた。
「加兵衛さん、ありがとう」
与右衛門の目は濡れていた。