「愛菜家」 台湾完全精進料理のカフェ&ペンション
台湾直輸入素材。
動物なし、5辛(にんにく、にらねぎ、あさつき、らっきょう)なし。
砂糖未使用。5辛は内臓にきついので。
国際的なBBQ
(なかゆきさん提供)
伊賀上野のフラワーブティックこさかさんの
一家が13年前から続けているBBQの様子です。
13年、おそるべしです。
年々盛んになってます。
実の姉が嫁いで花やさんを始めて、もう35年近くになります。
伊賀上野に住む、さまざまな国の人々と
ともにはじめたバーベキューの集いです。
理屈の嫌いなお姉ちゃんは、
こうして実際やっているから、凄いなあといつも
尊敬しています。
9月11日
記憶に深く残る9月11日という日。
あの衝撃的なできごとが起きた日、
ちょうど北陸から帰名するために、
北陸高速道路を走って、
あるサービスエリアに降りた時、テレビで見た。
そしてたしか再び高速道路に戻った時に、
横浜の友人から、事件の感想を聞かれる
ケイタイが鳴った。
そして答えた、「デキレース」というような言葉が
でた気がする。
そして数年がすぎた現在、そのことが
真実であったかもしれないような、
さまざまな証拠が明らかにされようとしている。
人間の中には、過去や未来を含めての
すべてあるかのように感じる。
耳をすませば、誰の内にも・・・。
そして手の中に全宇宙が・・・。
でも人間させてもらってる、この世で。
たくさんの時間
何もしないと、いっぱい時間がある。
とくに土曜日、日曜日は。
家庭にいる時間が圧倒的に多くなって、
ひところの緊張も少し溶けかけている。
「星の王子さま」を読んだ。
テーブルに置いてあったから。
「うちにあったの知ってたのに、
もっと早く読めばよかった・・・。」と娘。
「ぜんぜんちがうの、小さい時読んだ感じと・・・。」と家内。
意味などなくて、解することなく、胸に迫る。
私たちの中の「星の王子さま」。
「富士は晴れたり・・・・」の不二も
私たちの中に。
それぞれの人生。
死後の世界も今に・・・。
光に満ちたら
今朝5時、ほんとに久しぶりに座った。
一時間が10分くらいに感じた。
嬉しい朝だった。
友だちは毎日40分、必ず座るといった。
凄いなあ・・・て思った。
阪神大震災からこっち、
ちっとも座っていない自分がいる。
でもこのごろなんだか、何かに
せかされているよう。
「やらなあかんよ・・・・・・」 (笑) って。
書くこと
書くことは修行かも。
毎日のように、ご訪問くださるあなたさまの心に
ポッと灯がともったら嬉しいから、
毎日書かせていただけたらと願います。
9年前に去った名古屋商工会議所若鯱会の
25周年記念講演会が、話題の「千の風になって」の
作曲、訳詩の新井満さんの講演会です。
「般若心経」や老子さんの「道」をわかりやすく
解説する新井さんは現代詩人のようです。
お墓になにもないと以前にしゃべったら、
間違いなく変人あつかいだったのに、
現在は多くの方の共感を呼んでいます。
しかも今から旅立つたくさんのご老人たちが共感を
している事実が興味深いのです。
長い間、お墓やお経、先祖供養で
成り立ってきたお寺さんたちも大切ですが、
何か人間の未知なることを示唆するできごとの
ように感じさせていただいてます。
以前読ませていただいて多くを教えて
いただいた、アレキシスカレルさんの
「人間この未知なるもの」というご本が
急に頭に浮かびました。
わたしたちはひとりでしょうか。
出逢いの時間
人は出会う。
当たり前だけれど。
そして物凄い影響を受ける人もいる。
小学校、中学校時代なんか、
素敵な字を黒板に書く先生の真似をして、
自分の字が変化していく。
そんなことが数回あって、自分の本当の字が
確立していった。
今も変化しているのだろうけれど。
人生に強い影響を与える人さまとの出逢い。
そんな出逢いこそ、今回の人生の醍醐味だろうか。
会っては去り、あっては去りの繰り返しもまた人生。
他人様の集合体がまるで私のよう。
どんな人に出会うのかは、どんな人間に
なるのだろうかと同じように思わせていただく。
なつかしい出逢いに、心ときめき、
そして別れがくる。
今度はいつの「今」に、その方に出会わせていただけるのだろう。
そんなふうに思うと「大切にしよう」と思わざるを得ない。
仕事の話だけれども、いつも迷うのは「顧客優先ばかり
していると会社はどうなるのだろう。」という問題。
このことは人生の生き方にも通ずることだろうけれど。
今朝、そのことに触れている文章にいきあたった。
「愛他論」パウロの行動原理だ。
「私は、誰に対しても自由な者だが、すべての人の
奴隷になった。できるだけ多くの人をえるためである。
ユダヤ人に対しては、ユダヤのようになった。
ユダヤ人をえるためにである。・・・・弱い人に対しては
弱い人のようになった。弱い人をえるためにである。
すべての人に対してすべてのものになった。
何とかして何人かでも救うためである。」
ここでの自由な人とは、自分を捨てて
相手の奴隷になることによって、すべてを
獲得できる人という意味のよう。
「奴隷になれ」なんていやだ、言うべきことは
言うべきだ、と聞こえそうだけれど、
結局すべてを許し、相手の奴隷になることは
深いところの己の真の自由であり、意志である
のかも知れない。
出会う人すべてが私なのだから。