「2千年前に起きたことが今また」 奥の院通信 2/7

2千年前に起きたことが今また

 当時の奥の院(ユダヤ人たち)は、イエスをローマ軍に処刑させようと必死であった。この当時のパレスティナはローマの属州であった。イエスは、ユダヤ人たちの動きを全て知っていた。彼はゲッセマネの園で祈っていた。そこへ、ローマ軍兵士たちがイエスを捕らえにやって来た。

 イエスは、シオンの長老団の前に連れてこられると、次のように言った。

 「私が、毎日神殿でおまえたちといたとき、おまえたちは、私に手をかけなかった。だが、今はおまえたちの時間、おまえたちは闇の力である。」と。

 イエスは3度も裁判にかけられた。パレスチナには3つの臨時権力があったからである。ローマ人の支配は、ユダヤ人のヘロデ王とローマ総督ポンティウス・ピラトによって行われたが、パレスチナの実際の権力は、ユダヤ人律法学者たちの敵対する二つの集団によって行使されていた。一つは、大祭司アナニアに率いられ、ローマ人が後押しした。もう一つは、大祭司カヤパに率いられ、ユダヤ人が後押しした。イエスは3つの勢力の前で、それぞれ裁判にかけられた。

 『新約聖書』は「マルコ伝」の中で、イエスがユダヤのサンヘドリン(最高法院=奥の院)の裁判長カヤパの前に、引き出された時の模様を描いている。

 大祭司たちとユダヤ法院全体がイエスを死刑にするため、イエスに不利な証言を求めたが、何一つ見つけられなかった。大勢の証人が、イエスに不利な偽証をしたが、彼らの証言は全然一致しなかったからである。ユダヤ人は途方もない嘘つきであって、彼らの嘘は互いに矛盾していた。だから、どれもこれも、確かな証拠としては、使い物にならなかったのである。
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神の使者から奇跡の道へ その73~愛は愛だけに引き寄せられる

「愛は愛だけに引き寄せられる」

愛は何の偏りもないので、偏りのない愛だけに
引き寄せられるのでしょうか。

また感謝も誰かに対する相手のある人間的な感謝でなく、
大いなるものに対する全的な感謝も同じかも知れません。

先日「圧の差ができると、その圧の差を0に戻そうとする
見えない力が働きます。その圧の中で最大のものは
何でしょうか。?」と皆さんに問いかけさせていただきました。

ある方がそれは「愛」と言われました。
究極ですね。
でも愛は偏りがないので、圧の差と言うものは
ないですね。

物理的な話題ですので、少し奇跡とは離れますが、
最大の圧とは「意識」でしょうか。
ところが意識の中で圧をかけるとは、夢や希望といった
人間的なものですね。
人間が判断し意識の圧を上げると確かに物事は
実現する様ですが、「判断はすることができない」という
真理に照らすとこれもまた自我の夢ですね。

愛も感謝も方向がなく無限です。

その無限が私たちの本性なのでしょうか。

ですから無限であれば無限が広がりを続けるのでしょう。

「メッセージは自分自身に送られることになると
理解したなら、誰が憎しみや攻撃のメッセージを
送りたいと思うだろう」

「この世界におけるさまざまな関係は世界がどのように
見られているかということから生じる結果」

「愛は愛だけに引き寄せられる」

神の使者から奇跡の道へ その63~天国とは場所でもなく、状態でもない。・・

「天国とは場所でもなく、状態でもない。
それは単に完全なる一体性についての自覚」

なにかあまりはっきりしませんね。

「天国」とかあるのかないのか知りませんが
「地獄」もたいていはあることが行われている
場所って考えがちですね。

それからいろんな環境のような状態とも
思いがち。

でもそうではないと断言。

「完全なる一体性についての自覚」
ということです。

完全にすべてが一体。
無限なる宇宙との完全なる一体感を
なんとなく自覚することが天国。?

では感ずるんでしょうか。?
その一体感を感じたときに一体どうなるんでしょう。

飯島さんは運転中にその自覚があって
「目にワイパーがいるよ。」って笑っていました。
なんというか至福感かもしれませんね。

お風呂で裸の時もいきなり体験された様です。
ちょっと恥ずかしいですね。(笑)

でもそれを体験すると、飯島さんのように
自他の境なく、すべてと分離していない
自覚があって、自分が無限ですべてのすべてだと
感じるのでしょうか。
そしてその後はそのように生かされるのかも。

それはマントラ瞑想の時も感じることも
あるようです。

奈良のTさんやMさんなんかしょっちゅうでしょうね。
幸せ・・・・。

でも感じるものが天国。?

わかりません。

「天国とは場所でもなく、状態でもない。
それは単に完全なる一体性についての自覚」

神の使者から奇跡の道へ その62~代用することが不可能な唯一の感情は愛

「代用することが不可能な唯一の感情は愛」

愛ならいくらでも何度でも(笑)行けそう!と
すぐに特別な関係を連想しがちです。

ある一部や一部分が対象でなくて、
あらゆるもの、人に関して、まったく分離がない状態が
おそらく唯一の感情と言われるのでしょうか。

何も求めないもの。
選ぶことのないもの。
ただ与えるだけのもの。

奇跡とは癒しのこと。
目の前に現れた兄弟とともに奇跡を
味わいます。
相手がいないとできないこと。
そしてその相手は誰でも。

「真理は内に向かって延長するものであり、
そこでは損失と言う考えは無意味であり、
増大のみが可能」

自分自身の内側では、兄弟を完全なる愛を
もって愛しているのですから、
真理を幻想へ、無限を時間へ、生命を死へと
運んでしまった、その一つの誤りだけが
私たちの犯した誤りのすべてのようです。

奇跡は分離のない愛へと導き、それを癒しと
呼んでもいいのでしょうか。

全てへの赦しがその道となるようです。

「代用することが不可能な唯一の感情は愛」

ガリラヤ湖の153匹の魚  再録

ガリラヤ湖の153匹の魚
イエス様三度目の復活の場面。
ガリラヤ湖で網にかかった153匹の魚の意味を考える。

三で割れる数字の中で唯一の数の意味を勝手に理解。
全自然数の3分の一である3で割り切れる数の中の
唯一の特徴を持つ数である153。
これしかない。

父と子と聖霊の三位一体。
その三位一体の唯一の数とは、一人一人。
すなわち貴方様。?
一人一人が分離感をなくすようにとイエス様が数霊に込めた気がいたします。

ゼカリヤ書13・8-9

⑧全地はこうなるー主の言葉-
三分の二は死に絶え、三分の一がそこに残る。

⑨わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を精錬するように彼らを精錬し、金を試すように彼らを試す。彼はわたしの名を呼び、わたしは彼に答える。
わたしは言う、「これはわたしの民」。
そして彼は言う、「主こそわたしの神」。

ほとんど死んでいるかのように生かされる人々で
満ちている現代という時。
三分の一が分離感を解き放ち生かされた者と
なるかのようなイエス様の預言です。

こちらは現代のキリスト教とは無関係ですが。
イエス様の言葉は別次元と感じさせます。

名古屋ー豊田ー飯田と続く飯田街道
豊田ー飯田は国道153号線。
田ー田の「田田交産」新しい力を生み出すこと。

そして中部日本放送は1053キロヘルツの周波数。

日本の真ん中の不思議な数霊を思います。

数霊の遊びですが。

まさか、今。?

奥の院通信 「ネサラ・ゲサラ」 210205

https://okunoin.fc2.net/blog-entry-467.html

ネサラ・ゲサラ

 ネサラ(NESARA)・ゲサラ(GESARA)が実現する可能性が出てきている。そこで、その内容を書いておくことにする)。これが実現すれば、人類は奥の院の支配から脱したことになる。そうなれば、この奥の院通信も書く必要がなくなる。

 (なお、(ネ)はNational Economic  (サ)はStabilization (ラは)Reformation Act (ゲ)Global Economic (サ)Security and(ラ) Recovery Actである)。

 内容は以下の通りである。ちょっと分かりにくい部分もあるが、それはこれから説明がなされることになると思う。また、これはアメリカ合衆国についてのものである。だから、我々日本人にとっては分かりにくい部分がある。そして日本など、アメリカ合衆国以外の国については、ゲサラ(GESARA)で順番としてその次となる。時期は少し遅れてのこととなる。しかし、詳細発表は前もってなされるという。この場合には、現在、世界各国に存在するディープステートはなくなる。

ネサラ(NESARA)・ゲサラ(GESARA)の20項目

1. 違法な銀行および政府による活動に由来する、全てのクレジットカード、抵当、銀行債務は取り消される。多くはこれを、”ヨベル/大赦”、あるいは完全な債務免除と呼んでいる。
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神の使者から奇跡の道へその74~ 用語について

このシリーズも73回目を終えています。

今まで使わせていただいた用語について、
すこし書かせていただきます。

よく使う言葉ですが、日本語ですので今まで通りに
意味を受け取りますと、すこし違和感があるかも
知れません。
そのため「奇跡のコース」での用語を
説明させてください。

智識

「知識」とは異なります。
物質の世界を完全に超越した「一なる心」、
すなわち神の心を表す言葉。
自我の世界の「知覚」とは対極にある概念です。
「知覚」や「直感」が体験されるこの世界を
完全に超越した状態がこの「智識」。

実相

「現実」と呼ぶものは「幻想」であって、
「実相」は真に実在する現実。

コミュニケーション(親交)

言葉を使う通常のコミュニケーションとは異なり、
神と神の子の間の、言葉を介さない愛の流れの状態。

心眼

「霊的な視力」、「正しい心による視力」。

聖霊

私たちの一人一人の内に宿るもので、神を
代弁する声を介した親交のその声のこと。