神の使者から奇跡の道へ その62~代用することが不可能な唯一の感情は愛

「代用することが不可能な唯一の感情は愛」

愛ならいくらでも何度でも(笑)行けそう!と
すぐに特別な関係を連想しがちです。

ある一部や一部分が対象でなくて、
あらゆるもの、人に関して、まったく分離がない状態が
おそらく唯一の感情と言われるのでしょうか。

何も求めないもの。
選ぶことのないもの。
ただ与えるだけのもの。

奇跡とは癒しのこと。
目の前に現れた兄弟とともに奇跡を
味わいます。
相手がいないとできないこと。
そしてその相手は誰でも。

「真理は内に向かって延長するものであり、
そこでは損失と言う考えは無意味であり、
増大のみが可能」

自分自身の内側では、兄弟を完全なる愛を
もって愛しているのですから、
真理を幻想へ、無限を時間へ、生命を死へと
運んでしまった、その一つの誤りだけが
私たちの犯した誤りのすべてのようです。

奇跡は分離のない愛へと導き、それを癒しと
呼んでもいいのでしょうか。

全てへの赦しがその道となるようです。

「代用することが不可能な唯一の感情は愛」

ガリラヤ湖の153匹の魚  再録

ガリラヤ湖の153匹の魚
イエス様三度目の復活の場面。
ガリラヤ湖で網にかかった153匹の魚の意味を考える。

三で割れる数字の中で唯一の数の意味を勝手に理解。
全自然数の3分の一である3で割り切れる数の中の
唯一の特徴を持つ数である153。
これしかない。

父と子と聖霊の三位一体。
その三位一体の唯一の数とは、一人一人。
すなわち貴方様。?
一人一人が分離感をなくすようにとイエス様が数霊に込めた気がいたします。

ゼカリヤ書13・8-9

⑧全地はこうなるー主の言葉-
三分の二は死に絶え、三分の一がそこに残る。

⑨わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を精錬するように彼らを精錬し、金を試すように彼らを試す。彼はわたしの名を呼び、わたしは彼に答える。
わたしは言う、「これはわたしの民」。
そして彼は言う、「主こそわたしの神」。

ほとんど死んでいるかのように生かされる人々で
満ちている現代という時。
三分の一が分離感を解き放ち生かされた者と
なるかのようなイエス様の預言です。

こちらは現代のキリスト教とは無関係ですが。
イエス様の言葉は別次元と感じさせます。

名古屋ー豊田ー飯田と続く飯田街道
豊田ー飯田は国道153号線。
田ー田の「田田交産」新しい力を生み出すこと。

そして中部日本放送は1053キロヘルツの周波数。

日本の真ん中の不思議な数霊を思います。

数霊の遊びですが。

まさか、今。?

奥の院通信 「ネサラ・ゲサラ」 210205

https://okunoin.fc2.net/blog-entry-467.html

ネサラ・ゲサラ

 ネサラ(NESARA)・ゲサラ(GESARA)が実現する可能性が出てきている。そこで、その内容を書いておくことにする)。これが実現すれば、人類は奥の院の支配から脱したことになる。そうなれば、この奥の院通信も書く必要がなくなる。

 (なお、(ネ)はNational Economic  (サ)はStabilization (ラは)Reformation Act (ゲ)Global Economic (サ)Security and(ラ) Recovery Actである)。

 内容は以下の通りである。ちょっと分かりにくい部分もあるが、それはこれから説明がなされることになると思う。また、これはアメリカ合衆国についてのものである。だから、我々日本人にとっては分かりにくい部分がある。そして日本など、アメリカ合衆国以外の国については、ゲサラ(GESARA)で順番としてその次となる。時期は少し遅れてのこととなる。しかし、詳細発表は前もってなされるという。この場合には、現在、世界各国に存在するディープステートはなくなる。

ネサラ(NESARA)・ゲサラ(GESARA)の20項目

1. 違法な銀行および政府による活動に由来する、全てのクレジットカード、抵当、銀行債務は取り消される。多くはこれを、”ヨベル/大赦”、あるいは完全な債務免除と呼んでいる。
“奥の院通信 「ネサラ・ゲサラ」 210205” の続きを読む

神の使者から奇跡の道へその74~ 用語について

このシリーズも73回目を終えています。

今まで使わせていただいた用語について、
すこし書かせていただきます。

よく使う言葉ですが、日本語ですので今まで通りに
意味を受け取りますと、すこし違和感があるかも
知れません。
そのため「奇跡のコース」での用語を
説明させてください。

智識

「知識」とは異なります。
物質の世界を完全に超越した「一なる心」、
すなわち神の心を表す言葉。
自我の世界の「知覚」とは対極にある概念です。
「知覚」や「直感」が体験されるこの世界を
完全に超越した状態がこの「智識」。

実相

「現実」と呼ぶものは「幻想」であって、
「実相」は真に実在する現実。

コミュニケーション(親交)

言葉を使う通常のコミュニケーションとは異なり、
神と神の子の間の、言葉を介さない愛の流れの状態。

心眼

「霊的な視力」、「正しい心による視力」。

聖霊

私たちの一人一人の内に宿るもので、神を
代弁する声を介した親交のその声のこと。

「永 遠」

今を見て

悲しまないでください
恐れないでください

わたしが出逢った お父さん お母さん
しっかり生きているので 安心なさってください

わたしが出逢った 娘よ いまも元気だから
安らかにしていてください

今度の旅で出逢った 友だちよ
君のことは 決して忘れないから また逢おうね

決して忘れないから

わたしを地上に出した わたくしよ
あなたに与えられたことは
与えることが叶ったので
どうぞ平安にいてください

今もまだ 旅は続いています

そしてこれからも

永遠に・・・

神の使者から奇跡の道へ その75~あなたが見ている世界は・・

「あなたが見ている世界は、あなたが自分に
下した裁きに他ならない。それはまったく
そこには存在しない」

世界は存在しない。?

そうだとしたら、その幻想という世界は
なにゆえ幻想としてでも見えるのでしょう。

それは心の影。?

とうことはすなわち自分の心が
判断し裁いた影でしょうか。
「判断することも、裁くこともできない」のにです。

目の前に現れる兄弟も、もちろん心の影だとしたら、
兄弟に対して裁いてしまったことを赦すしか。

「兄弟に対する自分の赦しが、自分たち二人だけの
ためにしか役立たないと考えてはならない」

心の影だったところを抜けて、新しい世界の
全てが各々の二人一組になった者たちの手の中にある
らしいので、つながりあうという奇跡の一つひとつが、
永遠の世界への強力な前触れとなるようです。

奇跡へのカギはもちろん赦しですね。

「あなたが見ている世界は、あなたが自分に
下した裁きに他ならない。それはまったく
そこには存在しない」

神の使者から奇跡の道へ その76~あなたの兄弟を罪なき者と・・・

「あなたの兄弟を罪なき者と見ながら、
彼を肉体として見ることは不可能」

逆に言えば罪のない肉体を見ることも不可能ですね。
肉体と言えば、罪そのものですから。
分離しているもの、そしてないもの。

そして肉体って、関りを通して権力を求めるために
自我が選択した武器そのものですね。
ですから兄弟を肉体として見ている者は、
彼に裁きを下したのであり、彼を見ていない。

どうすれば兄弟を肉体なしで見ることができるだろうと
質問してはならず、私は彼を本当に罪なき者と
見たいのだろうかとだけ問えばいいようです。
そしてその時忘れてはならないことは、彼の無罪が
あなた自身の恐れからの脱出だと言うことのようです。

救済が神の声である聖霊のゴールで、その手段は心眼。

「あなたの兄弟を罪なき者と見ながら、
彼を肉体として見ることは不可能」

神の使者から奇跡の道へ その77~人はその心に・・

「人はその心に思うごとく知覚する。
だから世界を変えようとするのはやめなさい。
そうではなく、世界についてのあなたの心を
変えることを選びなさい」

世の中は見えているとしたら、その見えている現象は
人の考え通りと言うことでしょうか。
だったら人はさまざまな思いで生かされているので、
一つの世界だと思われる世界は、人の数だけ
あると言うことですね。

人は思いがさまざまだからですね。

同じような思いの方々は、同じように世界を
見ていることになりますね。

もし自分の気に向かない世界だとしても
それは実はその人の意識の反映だということ。
ちょっと厳しいですね。

ですから気になる、とてもいやな世界を見ているのなら、
どんな思いがその世界を現わしているのだろうと、
自問自答すればきっと世界は瞬時に変化するのでしょうね。

ほんとかな。?(笑)

そしてその世界に喜びを与えるのはあなたの中にある。
一人の中の光は、すべての者の中のその光を
目覚めさせることができるのでしょうか。

ただただ罪の世界(分離の世界)を聖霊が見ている世界
(元一つの世界)へと喜んで交換しようとする
気持ちがあるかどうかだけのようです。

決意だけでしょうか。

「人はその心に思うごとく知覚する。
だから世界を変えようとするのはやめなさい。
そうではなく、世界についてのあなたの心を
変えることを選びなさい」