「ウィリアム・シャイラー」 奥の院通信 R3 5/23

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シャイラーはナチス・ドイツに関する『第三帝国の興亡』と言う浩瀚な本を書いた。これで彼は全米図書館賞を受賞している。しかし彼は、この本の中で、肝心な証拠文書については触れていない。「想定できるヒットラーのユダヤ人虐殺命令は、『明らかな書面には記載されなかった、おそらく命令はゲーリング、ヒムラー、ハイドリッヒに口頭で伝えられたのであり、その上で、更に下層の部局に伝達されていったのであろう」として、そっとこの問題の核心からは逃げている。

 また、ユダヤ人絶滅を支持する証拠の1つとして、マンヴェルとフランクルは1941年7月31日付のメモを引用する。このメモは、ゲーリングからドイツ国家安全局長官でヒムラーの代理人だったハイドリッヒに送られたものだった。この最初に、「1939年1月24日、貴殿に委託した仕事、それはユダヤ人問題を現在の状況から見て可能な仕方で移住と疎開の手段を用いて、解決するという仕事であるが、この仕事を補完すべく・・・」とある。

 彼らは、この指示が、ヨーロッパでドイツ治政下に入った地域における財政的且つ物資的諸問題を解決する任務を意味していたと認めている。つまり、国内にいるユダヤ人組織がドイツ国家に対して宣戦布告をしたために、国内の敵国国民として存在することになったユダヤ人を、隔離する必要があり、彼らを東方の収容所に送ることを意味していたという事情を、了解していたのである。

 従って、ここで出てくる全体解決は、あくまでも「移住と疎開」である。ここには「ユダヤ人を殺害せよ」と言った内容の言及は一切ない。移住・疎開・隔離への、理想的且つ終局的計画を作成せよとの命令であった。ところが、マンヴェルとフランクルは、「これこそが、ユダヤ人殺害の命令である」と断言する。あくまでも本当の意図は「口頭」で伝えられたとするのである。このような大問題に関する命令が一片の文書もなく、「口頭」のみで伝えられるなどと言うことは考えられない。この口頭命令という便利な言葉が、問題発生前後に引き出され使用されたのであった。

 あまりにも強引すぎるこじつけの虐殺殲滅伝説に対しては、事実ではないし、その事実を裏付ける文書などは存在しないので、当然のことながら異論も出るのである。そこでその異論を封じ込めるために、これに関する一切の言及を違法なものとして、違反者には刑事罰を科すことにしたのであった。そこでは、表現の自由などという正論は全く機能していない。

 ユダヤ人絶滅計画の細部が最終的に決定されたのは、1942年1月20日に行われたワンゼー湖(ベルリンの西)での会議においてであったという。会議を主催したのは、ハイドリッヒであったが、この会議にはドイツ政府各部局全ての官僚たち首脳が出席した。

 ミューラートとアイヒマンはゲシュタポ首脳部を代表して出席していた。ユダヤ人絶滅計画はこの会議で決定されたと言うことになっているが、実際はこのような計画は会議では、語られることすらなかったというのが真相である。しかも、ライトリンガー、マンヴェル、フランクルの3人は、この会議でユダヤ人絶滅計画が決定されたと主張しているにも拘わらず、ここでその計画については全く語られなかったと言うことも、認めているのである。細部は真の意味を隠して、使われる専門用語の専門的官僚主義の言葉で、見えなくなっていると言い逃れている。

 要するに、ドイツ国内にいるユダヤ人という(宣戦布告をした)敵性国民を、移住させ隔離する計画を、「絶滅計画」と誤解させ、この誤解を故意に確定固定させた。その後はこれを刑罰で担保することによって、歴史事実としてしまったのがホロコーストの真相である。あとは戦後暫くして、アウシュビッツその他のいわゆる「ガス室」に世論を導いて、世界を洗脳していった。

 その後はローマ法王などを始めとして、世界の要人たちをして、アウシュビッツを訪問させ、記念館で彼らを額ずかせる。こうしてホロコースト神話(600万人虐殺神話)を確たる事実として固定させた。これと同じことを中華人民共和国(中共)が南京大虐殺などに使用して日本を貶めている。