ある返信

人形141128.JPG
今毎日眠っている部屋にある人形です。
これは40年前に生まれた忍のお祝いにと、ある方から
いただいたものです。
この40年間に5度の転居をしましたが、ずっと一緒にありました。
私にとってはとても思い出深く、決して捨てることなどできないものです。
人形ケースの奥の方が始めの人形で夫婦と子供一人でした。
それから時が過ぎ、3人の増加があって人形を一つずつ足してきました。
一番最後が末娘で色が白かったもので、白い人形に
したのでした。
家族6人の人形ケースです。
その中の一人が今年の6月に欠けてしまいました。
お年賀の辞退おはがきを送りました。
幾枚かの返信のお便りに、この人形を下さったYさんからの
ものがありました。
Yさんは私が今日在る大恩人のお一人です。
伊路波村の過去記事にYさんのことを書かせていただいてました。
また返信にあるUさんのこともあわせて書いてありました。
もしよろしかったらYさんとUさんのことを読んでみてください。
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「堅い人」      2005年(平成17年)7月1日
今日は雨。
カラカラ名古屋に久しぶりのお湿り。
みんなホッとしているのだろうか。


昔のことを思い出した。
学校を卒業し最初に配属されたのが、関越道の
新座工区工事。
今話題の道路公団の仕事だった。
今から35年前のこと。
若かったです。
すぐ直属の上司が昭和16年生まれのYさん。
兄と同じ年齢の方だった。
ものすごく仕事の速い方で、なんにもわからないので、
こちらはウロウロするばかり。
それに無口なので、新人としては一日息詰まる。
毎日毎日、その方の手元として測量をしたり、
丁張(ちょうはりーー木で構造物や土工の位置を示す)をかけたり、
かけずり回った。
たまにしか口を開かないので、一言しゃべると怖い。
いつもいつも作業服を泥んこにするこちらの姿を見て、
「汚れてるからって、よく働くとは限らんからな。!」
(---んんんっーーいやなやつ!)
でもその日からなるべく作業服を汚さなくなった。
3ヶ月くらいでYさんは富山県小杉町の北陸高速道工事の
現場へ移った。
そのあとを追って、こちらもそのまた道路公団の現場へ移動。
その現場では、一人で仕事をさせてもらった。
といっても土工とか、用排水工とか、トラックの砂の検収とか、
基本的な仕事ばかり。
土工事では泣けてきた。
富山は初夏から夏、毎日のように午後3時ごろ決まって
雨が降る。
土工事では水分が天から降ったら、工事は中止だ。
それから、道路に溜まった水溜りの水を、バケツやスコップを使って、
道路の外に運び出す、水切り。
この仕事が午後3時から毎日のようにあるのだった。
明日の朝すぐ、工事再開ができるように。
1時間くらい水切りを続けたあと、また天から雨がスコールの
ように降ってくる日もある。
そんなときが泣けてくるのだった。
(大学まで出て、何でこんなことをーー)
まったく傲慢な人間を、たたきのめすような体験が続く。
冬は雪が降る。
2ヶ月くらいは仕事ができない。
だから作業現場の監督の半分は太平洋側の現場に
助っ人にいくことになる。
Yさんと二人で冬ごもり。
しだいに人間性がわかってきた。
恥ずかしがりやさん。
負けず嫌いさん。
職業人となって最初の上司ほど印象に残る人はいないだろう。
そしてまたその方の影響を大きく受けるのも事実だろう。
仕事を集中し早く仕上げる。
できることは明日に伸ばさない。
大変なことから片付ける。
他人よりつらいことに率先して手を出すこと。
身なりを汚さない。
たくさんのことを無言で教えてくださったYさんとの北陸は
2年で終えた。そして最後の一緒の工事、日光宇都宮道路に
移動していった。
この北陸の最後の時期に結婚できた。
所長や、Yさん主任さんの3人が名古屋の結婚式に
きてくださった。
所長の挨拶で、泣いてしまった。
家内からハンカチがーーー。
3ヶ月に一日しかない休日。
それが2年も続いたのだから。
日光に移って、1年半で道路公団の工事3件目を終え、
名古屋に戻った。長女が生まれていた。
Yさんは日光後、仙台の支店に配属になり、
その後の幾年間を仙台ですごしたと聞く。
今は消息を知らない。
そして宇都宮から名古屋へ戻ってしばらくして、
風の便りで、Yさんは奥さんを亡くしたと聞いた。
日光ではこんな男にでも直属の新入生部下のUさんがついた。
嬉しかった。
それでもYさんに教えられたようには、とても教えることは
できなかった。
彼のほうが優秀だったから。(笑)
名古屋に戻ってからのやがて30年の間に、
幾度かUさんは尋ねてくださった。
今はリストラの暴風雨が吹く大企業の
土木営業部長。
髪も薄くなっていた。
川越ー小杉ー宇都宮と続いた、道路作りの旅。
出会った人々。数々の出来事。
みんな鍛えてくれた。
送別会がわりに開いてくれたゴルフコンペ。
日光の山を群馬県方向に越えた、伊香保国際カントリークラブ。
はじめてのゴルフの日はやっぱり雨。
カッパを着て、一番ホールに立つ。
一番は確かショートホール。
第一打はOB!!
今も脳裏に残る、旅館でのなつかしいさよなら宴会。
心やさしき人々は、どん尻成績の私に、一番の賞品を
譲ってくれた。(真珠の首飾りを家内に)
酔って、ナマオケで歌った「惜別の唄」
みんなどうしているんだろう。
Yさん元気でいるんだろうか。
ありがとうございます
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Yさんは宮城県在住の方です。
後輩のUさんは神奈川県に住んでいます。
私の最後の建設現場となった日光宇都宮道路での
同僚の同窓会が数年前に宇都宮で開かれました。
その音頭をとったのがUさんでした。
その当時の所長さんであったHさんも健在でしたので
健在のうちに懐かしい仲間たちと会いたいと皆が思ったようでした。
それで当時まだ会社に役員として在籍していたUさんが
通知や段取りをしてくださいました。
会社の一現場の同窓会が行われたのは、その会社では
例がないといわれました。
みんな仲がよくて、大変に苦労をした現場でしたので
協力しあった思い出が心に残ったのでしょう。
その所長を囲んでの同窓会はほんとうに温かい集いとなりました。
そして予想通り、その集いが所長との別れとなりました。
所長は昨2013年に宇都宮にて他界されたのです。
私にとっての大恩人は返信を下さった先輩のYさん、H所長、そして
後輩ではありましたが、いつも面度見がいい大物Uさんです。
Yさんからの返信
山田 將貴 様
喪中のご連絡をいただきました。
人生の厳しさをつくづく痛感しています。
私も過去に悲しい思いをしていますが、山田様への言葉が思いつきません。
私の人生で最良の友人である山田様、来年は必ず名古屋に出向きますので
お会いしてください。
U様とも今ご連絡しご一緒させていただきます。
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私の人生で最良の友人・・・・のことばに慟哭していました。
私を友人と・・・・・・。
もったいなさにぼろぼろ涙がこぼれました。
返信をくださったYさんの奥様が亡くなったと風の知らせを
受けてからもう37年が経過しています。
そしてYさんやUさんとお別れして42年が経ちました。
私たち土木屋は男の世界。
何年の時を経ても、どんなに離れていてもその時、その時の
思い出が蘇ります。
どんなにお世話になったことだろう、すばらしく温かい人たち。
「与えたものが受け取るもの」
真理がこだましています。