2415「カバールDS東京五輪は開催されたのか?」2021.8.5 自分で自分を自分するから

https://tenmei999.blogspot.com/2021/08/2415ds202185.html

今回は「地球の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年8月3日の記事を紹介します。

https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12690158305.html

「カバールDS東京五輪は開催されたのか?」

みなさん、こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

あっという間に第10回青森講演会2Days.(弘前×八戸)が目前に迫ってまいりました。

さてかなり間が空いてしまいましたが、今回も澤野大樹さんに青森講演会直前インタビューをお願いしました。

――澤野さん、前回の投稿からもう一ヶ月も経ってしまいましたよ。再び久しぶりのインタビューをさせてください。

本当にそうですね。前回の弘前、八戸講演会が6月12日~13日でした。そこで全体力を消耗した感がありまして、そこから回復するのに期間を要して、さらに7月は仙台、名古屋、

そして大樹界と続きましたから、リアル社会での活動がメインとなっていました。

――お疲れ様でございました。

ブログの更新はいたしませんでしたが、全国各地でそれはもう何百人とお会いしていましたから、休んでいたという感覚はまったくないのですよ。

――どこも盛況でしたね。

はい。これは本当にありがたいことだと思っています。仙台では参加者が30名を超えるのに9年かかりました。

――ものすごく慎重であり地道ですよね。

私自身が非力であったということはもちろん当然ながらあるわけですが、昔、武田了円さんの著書に書いてあったのですよ。「3人以上集まる会には必ず魔が入るから気をつけろ」って。

――さ、3人ですか!?

そう、たった3人よ。だからこれまでずっと奇を衒わず水面下でやってきました。

この「なぜ3人か?」については、先日名古屋でその理由について少しだけお話しいたしました。

――そういうなかなか表には出さない秘訣のようなものがあるのですね。

あるある。人生や仕事をしていく中で大切な珠玉の名言というものがたくさんあります。

――仙台はもう37回目でしたよね。

そうですね。初回から全て皆勤賞で参加してくださる方もいてくださり、すごくアットホームで和やかな雰囲気になりましたね。名古屋も先日19回目を終えました。本当にたくさんのみなさまにご参加いただき、恐縮すると同時にありがとう!と申し上げたいです。

――長く続ける秘訣のようなものはあるのですか?

秘訣ではないけど、「地道」に「王道」を歩むこと。そして何よりもとにかく「基礎」を大切にすることです。どんなに最先端の時流を読む時であっても、そこに「基礎」がなければ

そもそも読むことはできないから。この世の前人未到の秘密を紐解くためには、それこそ圧倒的な「基礎」が必要になってくる。

――澤野さんはよくソクラテスの「無知の知」を強調されますが、それと関係がありますか。

広範な基礎知識なりを学ぶことによって、いわゆる「基礎学力」を涵養しますでしょ。それで何をするか?なのです。大切なこととは、蓄積された己の知識を見て誇るのではなく、

己は何を知らないのか?そして己には何がまだ足りないのかに気づいていくこと。

すなわち、知識を増し、勉強すればするほど己のその底無しの無知に気づけるということ。

でもそこに至るためには「知識」だけじゃダメなのです。

――「知識」にさらに何かが必要となるわけですね。

もちろんそうですよ。「知識」というものは「物質」なのです。三次元の物質である知識をどう在らしめるかは、その「知識」という道具を用いる人物の組成に立脚されるのよ。

それが出来て初めてその道具である「知識」に思いが「乗る」のね。その「思い」というのは「理念」であったり、「人徳」そのものであったり、はたまた「欲望」であったりと。

だから「知識」というものは、操縦者によっていかようにも変化する。そして、その「思い」がどのレベル、または帯域にあるかによってその知識は叡智にもなるし陳腐な戯言にもなる。

――それはつまり「知識」そのものには意味がないということですよね。

んだんだそのとおり。今から20年くらい前に文明アナリストの新井信介さんは――、

「学識とは直観を肉付けするためにあるのだ」

――と仰っていました。私は今でもその言葉を常に思い出しています。膨大に獲得された知識というものは、優れた直観を伴って初めて正常に機能するのだということ。

さらに言うと、直観が先なのです。いやだがしかしその直観は知識がなければ降りてこないわけですよね。つまり、相互補完関係にあるわけ。

――「直観」ですか。

つまりどうして私がこれほど「基礎が大事だ」としつこく言うのかと申し上げますと、その物質としての知識がいずれ人格と人徳を身にまとい「人」として成熟したのなら、その先にはやがて多次元世界からの優れた「直観」を呼び寄せるからです。

――それが「INTUITION」(直観)ということなのですね。

せやで。

――「直観」って単なるヒラメキじゃないということ。

その人の「人」としての器量、技量、知識量、経験値に完全に呼応し忠実に見合った直観しかもたらされない。直観にも「レベル」があるのだということ。そして何よりもそこで大切なことがありますよ。それは自分自身に降りてきた直観なりヒラメキというものが価値のあるものなのかそうでないのかを理解するためにはその基礎と知識量が必要になるということ。

――でも世間では即効的な直観の獲得を求める人がたくさんいますよ。

それが第一目的になったらダメなのですよ。それは衒学の徒を量産するだけです。

挫折に次ぐ挫折を繰り返し、

人生の終盤にそれでもようやく碩学の域に達するか否か。若い頃は身体は元気ですが頭脳が未発達でしょ。そして年老いたら身体は動かないけど頭脳が明晰になってくる。身体が元気で直観もバリバリっていうのが一番理想ですよね。あと動機が不純だとそれに相応しい直観しか降りない。

――基礎、直観、人格、人徳、そして動機。目の前のひとつの出来事を観察し読み解くだけの作業に、これだけたくさんの要素が求めらてしまうのですね。これはなかなかハードルが高いですね。

もっとも大切なのは「純粋さ」「素直さ」「謙虚さ」と、そして「ユーモア」ですよ。頭が良くないとユーモアを考えることはなかなか難しい。「ウィットに富む」っていうやつね。

しかし昨今、この「ユーモア」が曲解され劣化していますね。一番酷いのがオヤジギャグと下ネタでしょう。オヤジギャグと下ネタを人前で臆面もなく言えてしまう

そのメンタリティの筐底には、言語を軽んじ、豊かな人の心情や機微を否定し、さらに人の世をどこか見下しているのです。それでみんなが喜ぶだろうとする根拠の希薄なその揺るぎない自信とは無反省、無自覚なる「全知の無知」がゆえのものでしょう。

それは「無知の知」とは逆サイドにある姿勢だといえます。

機知に富み毒をも含む鋭い本物のユーモアというものは「基礎」と「直観」が必要で、さらに人々からの厚い「信頼」を得ていないと通用しない。人の機微や世のあらましを深く洞察していなければ、研ぎ澄まされた冗談のひとつもじつは言えない。

そして優れたユーモアを人に伝えるためには、言語の用い方、そして論理性を兼ね備えていなければならない。

だから、プラトンから派生した「リベラルアーツ」の根幹は「文法学」だったわけです。

――「文法学」ですか。

多次元世界に漂うロゴス、言語、イメージ、数字、概念、理念、思いなどは、顕在意識に直観として降りてきます。それは往々として非言語の感覚として降りてきますよね。

その時に、姿も形もないそのとりとめのない直観を、どう捉え、理解していくかの過程においてもっとも必要となるのが言語であり論理であり、そしてそれをまとめるための「文法」でしょ。多次元世界から降りてきた想念的な直観を、きちんと三次元用に次元変換し言語化して意味を理解する。つまり壮大無辺の多次元直観情報を明らかに知覚し理解するためには言語能力が不可欠なのね。

だから卓越した天才はじつは言語能力や論理性も卓越しているの。頭に浮かんだメロディを採譜することも言語化ですし、魔術に普遍性と再現性を持たせようとしているのが「科学」であるわけでしょ。

つまり「科学」とは「言語」のことですよね。それまで己の脳裏、つまり多次元世界にしかなかった叡智に普遍性と再現性を持たせるものが言語化ですから、それは哲学や思想の普及においても大事な部分ですね。

そしてそうやって降ろされ物質化された「文章」というものであれば、、そこにはすでに多次元的なものが最初から「帯びている」のです。だからそれを読む人の心を打つのだろうし、

人はつまり物質としての言語を機械的に読んでいるのでもなく、またそういったものを求めて本を読んでいるわけじゃなかったということまでがわかってくるわけですよ。

人は執筆者の脳裏世界に没入し追体験をしたいのですよ!

――何気ない日常会話で使う言葉も、本当はかなりシビアに吟味しなきゃいけないのでしょうね。

そうそう。迂闊に不躾な言葉や表現をしてはいけないんだ。多次元世界と常時接続し、優れた直観と共にあらんとするならば、己の思いや考えを表現する際には、可能な限り正確で、

微に入り細を穿つ精緻な表現を心掛けることが大事です。

これはオシャレとか見栄を張るためにそうするのではありません。そしてそれは技術や裏ワザ的なものでもありません。優れた小説家や作家の文章はどうして人の心を掴んで離さないか。そこが単なるライターとの決定的な違いでしょう。

道具としてだが多次元を帯びた文章、そして言語というものは、すでにクリエイター自身のアバターとして機能します。

つまり、単なる言語や言葉が「人そのもの」を兼ねるということ。無限に存在するその言葉と言語を組み合わせることによってじつは「人そのもの」を象(かたちど)ろうと生命を帯びるということです。

つまり高レベルにおいては言語は「人」となり得るのだということ。単なる道具に過ぎない言語に、己の脳裏の100%を投影させて普遍性と再現性を纏わせる。

そうして出来たものはすでに言語の範疇を超えるのです。

――無意識的に話す言葉というものにそこまでの意味があったということはまさに驚きです。

毎日毎秒、私たちは多次元世界を体現しているということです。もしくは毎日毎秒その機会が与えられているということです。多次元世界と三次元世界を「均衡」させるということです。脳裏に浮かぶ理念や思いやアイデアやヒラメキというものを些かの欠損もなく、100%三次元に写し取るということ。つまり言語化させていくということです。

この両者の均衡のことを「半霊半物質」といいますよ。思いと行動が一致していること。

そしてさらにその状態のことを「ひとつ」といいますよ。

――私たちが忘れていたその「ひとつ」という状態は、毎日毎秒、そこに立ち戻る機会やチャンスというものがしっかりと目の前に用意され続けているということですね。

そうそう。全然遠くないんです。ハッと気づいたその瞬間から新たな領域に入ります。

「1」でしか無いのに「10」になったと勘違いすることが覚醒や目覚めなのではありません。

「10」だと過信していた自分がじつは「1」に過ぎなかったということに気づくことが本来の覚醒であり目覚めなのです。「覚醒」とは「原点に還ること」です。「目覚め」とは「本来の己の姿を発見すること」です。原点に還り、本来の己の姿を発見できたなら、それを取り巻く世界、社会、世についても本来の姿として知覚することができるでしょう。

――そうなるために一番大切なこととは何でしょうか?

肥大化した自己というもの、蓄積された物質としての知識によって過信したことによって曲解してきた己の目線をまずはアラハバくこと。「知識」とは己を武装するためのものではなく、思い込みや偏見といった武装を、むしろ解除し総剥離していくものなのだということ。

つまり「脱ぎ捨てていく」作業となります。「自分はじつはまだ何も知らなかった」のだということを「知る」ということです。

――通常はどんどん知ってさらに知って覚醒しましょう」って考えられていますよね。

そう簡単に覚醒できないように、そこはセキュリティが掛かっています。知識の武装解除と無知の知の体験というものは非常に辛く、まさに挫折に次ぐ挫折のさらにその先にかろうじて見えてくるものです。それは一人ひとり違うそれぞれの苦難の道です。

もっとも見たくない己の姿を見なきゃならない。見てそれと対峙し解決し昇華させなきゃならない。誰もそんな道程は選択したくありません。でもすべては「逆」なのです。

つまり、「覚醒への道」というものにはインスタントな近道や裏ルートなどというものは

存在しないのだということ。「知識」や「裏情報」を得ることで覚醒できると吹聴する者がもしいるのだとしたら、それは偶像崇拝者でありその推進者となります。

私たちは一人ひとり「ひとつ」なのだということ忘れさせ、己の外側に覚醒するためのパスポートを提示し人心を惑わすならば、そのパスポートとは「偶像」そのものなのですよ。

末法の世にはそのような者たちが大勢現れます。そのような者たちのことを「偽預言者」というのです。「偽預言者」たちは「本物」を駆逐するために現れます。

私はそのような存在のことを「エージェント・スミス」と勝手に呼んでいます。彼らも「ひとつ」からの使者なのですけどね。そんなスミスたちは太古の昔からこの世界に存在します。

そしてそうやって、かつての縄文、日高見国は駆逐され葬られ、封印され、上書きされ、忘却されたのです。しかしその本物は一度一歩退いただけであって、そもそも駆逐などできるわけがないのだということをスミスたちは知らなかったのね。

あなたが正真正銘の本物であるのなら、どれほどの苦難に苛まれようが、じつは駆逐できるどころか、指一本触れることすらできないのだということです。

――そんな本物がこれから再浮上するのですよね!

そうです。7月27日に、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産登録が決定しましたね。これは多次元世界の雛形が地上に投影されたものです。この世界遺産登録にはそれはもう、たくさんの人たちによる涙ぐましい努力と尽力があって、こうして実現したわけです。

そこには明確な理念、思いがあった。それは言葉では表現し尽くせないものでしょう。

それだけじゃない。封印され、存在を消されてきたすべての「怨霊」たちもこれに呼応して作用しているのです。この列島で存在しないことになって消された魂たち、おまえたちは邪魔だと排除され、いなかったことにされた名も無き魂たち。そんな無名の魂たち、霊たちの思いも、きっとたくさんあったのだろうと思います。

――しかも五輪開会式の直後に発表となりました。

そう。五輪とも深く関係しているのですよ。五輪の開会式が強行されましたけど、いわゆる無観客でしたから客席は誰もいませんでしたよね。

――はい。

どうして無観客になったのだと思いますか?あの客席は、本来ならば、カバールたちが座る予定でしたよね。しかしそれが許されなかった。コロナという存在がそれを許さなかった。

――ということは、あの空席は?

目に見えない存在が座ったのだと思いますよ。目には見えない霊たちによって、あの日のあの会場は満席だったと私は思います。

――えーーっ!?

だからそんな開会式には出席できないという人たちが次々と欠席を表明しましたね。

――ということは、あの強行された開会式とは?

カバールDS祝賀会場だったものがいつの間にか、目に見えない存在たちによる「反カバール決起集会」へとひっくり返されていた。だから彼らは一目散に逃げたわけね。

マリオは地下の下水管トンネルを使って逃走するのが得意技ですからね。

――ということは東京五輪は開催されたのですか?それとも開催されなかったのですか?

世の中には「建前」と「本音」というものがあって、それは別の言い方をすると「名目」と「実質」っていうのがあるわけですよ。

――はい。

東京五輪には名目上の目的と、実質の目的の2つがありましたね。正確には東京五輪は4つの階層に分かれていました。そのうち、カバールDSたちがやろうとしていた「実質」の五輪の部分が今回許されなかったわけじゃん。

彼らは五輪本来の実質を名目化させ、彼ら独自の儀式の方を実質として入れ替えていたのね。そして今回、その彼らにとっての実質が許されなかった。ということはこれじつは「中止」になってるのよ。

――確かにそうですね! ということは今、やっている各種競技はどういう扱いになるのですか?

あれはすなわちカバールにとっては「名目上」の、つまり、私たちにとっては実質である

「純粋な運動会」をやっているということです。だから普通に選手を応援しちゃって大丈夫ですよ。

――そういうことになりますよね!

だからこれはつまりどういうことだかわかりますか?東京五輪は「開催された」けど「中止になった」ということ。この両者が多次元的に矛盾無く実現されてしまっているのだということですよ。

つまり、「開催」か「中止」かという二元論じゃなくて、「開催」でもあり「中止」でもあるというふたつが重なった状態で進んだということね。日本カバールDSにとっての悲願の儀式は「中止」。本来の純粋な国際運動会は「開催」ということ。

これなんかまさに「五次元チェス」って言って良いんじゃないでしょうか?

――なるほど!わかりました。

ということはですよ。カバールDSたちにとっては、今行われている普通の運動会など

もうどうでもよくなったわけですよね。

――たしかにそうですよね。

ということは、五輪を中止することに躊躇することはなくなりましたよね。もうすでに意味がなくなっているのですから。コロナの爆発的な感染拡大を理由に東京五輪を中止することが容易くなった。

――そういうことになりますね。

すべては「コードシェア」されているということです。ここでは申し上げませんが、完全無欠の「666」がちゃんと咆哮した。

――うわあ、それはまさにあれですよね?椅子から転げ落ちる話しですよね?

受け身無しで転げ落ちるレベルね!そのすべてのあらまし、そしてメカニズムを、青森講演会でお話しする予定です。8月からは新しい「10番原稿」となります。ぜひその圧倒的な世界を体験してください。

巨大な直観は頭痛とともに来るから大変でしたけど、ようやくその全貌が見えてきて本当によかった。小野さん、よろしくお願いいたしますね!(澤野大樹)

――こちらこそよろしくお願いいたします!

三内丸山遺跡6本柱建物(2016年撮影)

2020(2021)年東京五輪とは、先に提示された「結果」であり今後、その「結果」をもたらすための「原因」が現出すると、澤野氏は6年前に既に語っていました。
その「原因」とは、明確に「アラハバキ」を象徴するものであり観衆や視聴者が、単に見て楽しむレベルではなく、世界中のすべての人の実生活に直接的な影響をもたらすほどのパワーを持つ。しかし、それが人為的なものなのか、自然的なものなのかはまだわかってはいない、と。

その「原因」は五輪強行とともに如実に象徴するものとして顕著に現れてしまいました。

それは、「666」の他になにがあるというのでしょう。そこを理解するには何はなくとも「基礎」が大事。目先の物事だけを見て「本物」をなぞっていては根底が見えてきません。

レプリカは、あくまでもレプリカ。本物をコピペしてもそれは「本物」ではないのです。

ぜひ直観を研ぎ澄まして「本物」を見つけ出していただきたい。

さて、青森講演会第10回からは、新たなスタートです。第2章の始まりです。

ゾクゾクザワザワしてきましたね。

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