「76年前の昨日」奥之院通信 R3 8/18

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インドネシアがオランダから独立した。その宣言文は極めて簡潔で、以下の通りである。

 宣言
 我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
 権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
 ジャカルタ、05年8月17日
 インドネシア民族の名において
 スカルノ / ハッタ

 ここで、宣言文の日付が05年となっている。これは日本の皇紀2605年という意味である。日本のお陰で独立を果たせたという感謝の意味を込めて、日付は日本の皇紀を使用している。

 終戦の翌日8月16日、ジャカルタの在勤武官前田精海軍少将はスカルノとハッタを公邸に招き入れ、インドネシア独立宣言の打ち合わせを行った。会議は16日の深夜23時から始まり、翌日17日午前2時まで続いたという。会議にはおよそ50人ほどが出席し、その間、多数の青年グループたちが外で会議の結果を待っていた。

 後にインドネシア共和国初代外務大臣となるアフマッド・スバルジョは自著の中で、1945年8月17日未明に行われた独立準備委員会会議は、翌朝午前2時過ぎまで続いた。「こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、忘れることの出来ない夜の会合は終わった」と述懐している。
 前田はその後昭和51年、インドネシア建国功労賞を授与されている。そして、彼のいた公邸は、現在のインドネシアにおいて、「独立宣言起草博物館」として保存され一般公開されている。

 前田は在勤中、インドネシア独立養成塾を開設し、前途有為なインドネシア青年に愛国教育と厳しい軍事訓練を実施し、終戦の翌日直ちに独立準備委員会会議を主催している。そして、彼は後のインドネシア独立戦争に貢献した。

 人は生まれた時から年齢を数える。国も同じことで、誕生(建国)の時から、その国の年齢を数えることになる。皇紀は日本の国が誕生した時から数えているので、これが正式年齢となる。今、日本では、日本国の誕生とは無関係なキリストの誕生日を基準に年を数えている。

 その後、インドネシアには日本軍が追い払ったオランダ軍がすぐに戻ってきて、再びこれを統治しようとした。そこで、前田が訓練を施していた青年たちが、独立を維持するための独立戦争を戦うことになったが、オランダに降伏した日本軍兵士の多くが、この独立戦争に参加した。2000人参加して半分の1000人がここインドネシアの地で戦死している。

 この経緯を見るだけで、「日本はインドネシアを侵略した」という戦後のレッテルは嘘話であることが分かる。彼らの独立宣言には日本の皇紀を使用しているのである。インドネシアの国民は、日本が国の生みの親と感じている証拠である。

 日本国は先の大戦で2つの戦争目的を掲げて戦った。
 1つは「自由貿易の回復」であった。日本は厳しい理不尽な経済封鎖をされ、日本国および日本国民の在外資産を凍結されたからである。この不法な措置を解くために戦った。
 そしてもう一つの目的は「東亜の解放」であった。当時のアジアは日本国とタイ王国以外は全て欧米の植民地であった。したがって、この植民地の解放を実現すべく戦った。日本はアジアを侵略したと言われるが、日本軍はアジアの人たちとは戦争していない。戦った相手はその国・地域を支配している欧米の軍隊を追い出す戦争をしていたのである。

 もし戦争の勝敗を、そこに掲げた戦争目的が達成出来たら勝ち、達成できなかったら負けと定義するとしたら、先の大戦は日本の大勝ちである。掲げた目的は120%達成しているからである。
 世界中が自由貿易の世界になった。そして、アジアの国々は全て独立し、しかも、アジア以外の中東やアフリカなどの国々も全て独立し、今では全ての国が国連に議席を確保している。
 日本は先の大戦で酷い目に遭わされたが、戦争目的は完全に達成できた。日本は奥の院と戦って完全に潰されてしまったが、戦争には勝ったのである。日本が戦わなかったら世界は何も変わらず、今もアジアは欧米の植民地のままであろう。

 先の初代外務大臣を務めたアフマッド・スバルジョの出生地は「オランダ・オランダ領東インド西ジャワ州カラワン県」とある。ここに、この広大な地域を奥の院国家オランダが400年統治していた傷跡が残り、悲しい歴史を残している。日本はこれを正すために戦って、身はボロボロに壊され、その時の傷跡は今に引きずっている。その傷を癒やすのは日本国民自身である。