2500「聖なるあきらめ」2021.10.29 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年10月21日「聖なるあきらめ」と

2021年10月24日「家の北側をゆっくり歩きなさい」の2つの記事を紹介します。

「聖なるあきらめ」

風の時代に入ったのだとか。

物質中心の「地の時代」から、いよいよ「心の時代」の本格的な幕開けです。

では今日も、見える世界、見えない世界を包括する一番大切な、心の世界をいかにピュアにするかと言うテーマのお話です。

元聖心女子大学教授でシスターの鈴木秀子さんの「聖なるあきらめ」が人を成熟させるという本の中に、“聖なるあきらめ” という言葉が出てきます。

「聖なるあきらめ」という言葉は、単なる「あきらめ」とは違い、自分の身の丈を知る

ということを指します。

決して投げやりな言葉ではなく、自分に与えられた現状を受け入れることこそ、全ての問題解決につながると言うものです。

彼女はクリスチャンですが、まさにブッダの般若心経と同じことを仰っています。

よく言われる

・あるがままに

・そのままで良いんだよ

に通ずるものがあるかもしれません。

私達は「あきらめ」と聞くと、なんとなくマイナスなイメージがあります。

子供の頃から、親にも学校でも、「あきらめずに最後までやり通すこと」

そう繰り返し教えられて来ました。

ですが、いくら一所懸命に頑張ろうと

・全然認めてもらえない

・お金がもっと欲しい

・名の通った会社や学校に入りたい

・あの人は、お礼もしてくれない

・子供が言うことを聞いてくれない

・上司は私の気持ちをわかってくれない

・病気がなかなか治らない

私達には、日々そんな不満があるかもしれません。

でも、そのことは本当に不幸だと言えるのでしょうか?

鈴木秀子さんは、そう問いかけます。

鈴木さんは、こう仰います。

「あきらめる」には「諦める」だけでなく、2つの意味があります。

・1つは「諦める」「断念する」というイメージが強いかもしれませんが、

「執着しない」という大切な意味

・もう1つは「明らめる」。 馴染みのない表現かもしれませんが、元々は仏教用語で、

「物事を明らかにする」という意味

私たちが、自力ではどうこうできない、まさに「神さまの領域」のことは、あれこれ悩まず、考えず、その事実をそのまま受け入れてしまったら 、心は、執着から離れ、晴れ晴れと、清らかになり、全てのことが、うまく回り始めることでしょう。

どんなに一見不幸に見える出来事でも、事実を、感謝の心で受け入れれば、外見、健康、お金、人間関係など、今現在は不幸だと思うことも、実はそうでもないことに、段々と気付いてきます。聖なるあきらめは、自分も周りも幸せにする行為、賢く気持ちを切り替えていく行為であり、人間としての成熟に欠かせない行為なのだそうです。

私たちは、とかく

・あの時、こうすればよかった

・もう少し努力していれば

・別の選択をしていれば

など、いつまでも、 過去の事実を悔み、今の事態に執着してしまいがちです。

ですので、心が、そこに縛り付けられて離れることがありません。

だからいつまでも苦しむことになります。

鈴木さんが仰るように「聖なる諦め」の気持ちを持つことができたら、

そして執着から離れることができたら、どんなに幸せになることができるでしょう。

まさに、全てを受け入れる、般若心経の教えの真髄です。

「家の北側をゆっくり歩きなさい」

今日の新潟は久しぶりの良いお天気でした。

竹之高地不動社裏手の天空農園に畑仕事にみんなで行ってきました。ここの畑も、沢山の皆さんからご寄付を頂き大変助かっております。感謝申し上げます。ありがとうございます。

大量の サトイモが収穫できました。これも本日、フードバンクを通じ、子供食堂、食に困っている世帯へご寄付させていただきました。コロナの影響で、食べれないご家庭が増えてきているそうです。 ここ天空農園でできた野菜は、全て無農薬野菜です。

生態系も豊富で、今日はサンショウウオの赤ちゃんが、サトイモ畑で遊んでいました。

さて、今日は迫登茂子さんの「愛の詩」という詩集からです。

迫登茂子(さこ・ともこ)さんは、どこにでもいらっしゃるようなおばあちゃんでした。

彼女は20年ほど前に不思議な体験をしました。

そのときの印象を彼女はこう書いています。

「上から光が一杯入ってきた。はみ出した光で全身が包まれた! 私は変わった!」

以来、彼女の身のまわりに不思議な出来事が続き、天理教の中山みきさん、大本教の出口なおさんのように、不思議な人生を送るようになりました。

つまり神の意思の取り継ぎをするようになったのです。

取り継ぎの内容は、天変地異から友人たちの悩み事にまで及び、その真実性、正確さには、誰もがびっくりしたそうです。

普通、神様の取次などと言えば、おどろおどろしい霊能者を想像しがちですが、実は笑顔のまぶしい、素敵な家庭のおばさんのような方だそうです。

この方の側にいると、鎧や裃を脱ぎ捨て素直になれて、心が安らぐからだそうです。

家の北側をゆっくり歩きなさい

どうぞ、心を静かにして、目立たないけれど、懸命に生きていらっしゃる方々を思い浮かべてお読みください。

では、迫登茂子さんの「愛の詩」という詩集からです。

家の北側を ゆっくり歩きなさい とくに冬の北側はおすすめです

日だまりを求め ほとんどの塊が 南になびく

これは 北の世の常ですが 北側を 歩くことをすすめます

寒い 冷たい裏側で

水晶のように頑張ってつめたくひんやり頑張って 上向きに生きるものが見つけられます

つめたい思いをさせられても ぐんと ふんばっている世界の人々

特に 子供に思いが行きます。

迫登茂子「愛の詩」より

日の当らないところ、目立たないところ、華やかな人々の陰になり、見えなくなっている人がいるかもしれません。

太陽の役回りの人が居れば、月の役割の人もいます。全てが支え合い、バランスが整ってこそ、素晴らしいもの、美しいものを見ることが出来ます。

決して表に出ず、我を張ることなく、でも淡々と自分の役割を一所懸命果たしている人々が沢山います。彼らにも生活があり、大切な家族が居ます。

家では息子や娘が帰りの遅い、その人を首を長くして待っているかもしれません。

人生のドラマをそれぞれが持っています。

目立つ人々だけでなく、それを支えている、周りの目立たない人々の心も忘れないようにしたいと思います。

皆さんがご自分の内に居らっしゃる神さまに気付き、お幸せになれますように。