霊性の旅 3 「あれもそうなら これもそう。」

先日の埼玉で心に残った言葉があります。
故知花敏彦先生の言葉です。
ゆかりの方から教えていただきました。
「あれもそうなら これもそう。」
私達は例外を、または不思議なことを想念から除外して
考えがちです。そうでないと何か現実の世の中を
生き難いからでしょうか。
でも例外が全部だと知花先生はおっしゃった気がします。
「一つそうなら すべてそう。」

三重県菰野町の床屋のおばあさんは、行方不明の妹の
ことで相談に伺ったとき、
「三日以内に電話させます。」と言ってそのとおりになりました。
一体全体、神は一にして多神、ワレは生命なり。
言葉では理解しているつもりでも、現実の世では
そのように心から理解し行動していることができていないです。
しかしそのように不思議なことがおきますと、
生命は一つだと思わざるを得ないのです。
不思議なことを口にしますと、場所や環境によっては
「シカト」状態を得ます。本人にその意識があればですが。
だからなるべくそのようなことを口にするには場所を
選ぶことになります。
町内で口にすれば「村八分」は間違いないです。
ですから以下の記事で未知能力を発揮する久村さんや、
長崎アンデルセンでの出来事を理解するには常識と言われる
頭を一度おいておいてから理解しないとい狂います。
この記事です。
「セロ、ヒロ、あんでるせん、ふしぎ」
物理的に無理なことが目の前に起きます。
そうすると「一つそうなら みんなそう。」の原則によりますと、
私達の見ている現実は幻で、意識や想念はものすごい
エネルギーを持っていると納得します。
もうひとつ今ここにある物質が、他の場所に移動する
テレポーテーションが実際にあることが、友人の時計の移動でわかります。
そうするとこの目の前の現実はやっぱり幻想であって
すべての物質に意識があることを知ります。
そして意識は最大のエネルギーであることもです。
さらに時間のことです。
世界と言う言葉は、世が時間で界が空間、宇宙の宇は空間で
宙は時間を意味するようですが、その時間がもし今にすべてあるとしたら
どうでしょうか。そして目の前にある見えるものは、一様ではないとしたら。
そのことを白山中居神社でのこの記事は教えています。
「なにものがおわしますかは・・・・・」
まず文中の石の前の結界柱の左側に巻きついている
御巳様(おみさま)の首をもたげたような姿は、
普通の写真には写りません。
うすいじゅうたんのようなベールに隠れたように写ったのですが、
その姿は現実の目ではとらえることができないのです。
ですからあるものもないし、ないものがあるのです。
一様ではない世界が私達が存在するこの世界であり、
また幻想であると言ってもいいのかもわかりません。
そして時間のことです。
実はこの撮影をされたのは東京の友人です。
その友人と神社に同行した日に撮影されました。
ところがまことに不思議なことに、この友人の個人的な御天画に
すでにこのじゅうたんのようなうすいベールが描かれていたのが
一ヶ月ほど前のことでした。
過去が前にあり、未来が過去にあります。
時間の概念を覆されるできごとです。
もしかして全過去、全未来、全シーンが今ここにあるのかも
わからないと思わせられます。
このように私達の知識をはるかに超える出来事を体験しますと、
いかなる知識も意味が薄く感じられてしまいます。
人間に生まれさせていただいて、各個人は悲しいこと、嬉しいこと、
苦しいこと、どん底と思われること、もう立ち上がれないと絶望すること、
こんな幸せはないと感謝すること、溢れるような感動に慟哭して
しまうこと、よくやってきたなあと達成感に満ち溢れること、
明日食べるお金もなく不安でいっぱいのこと、みんなにいじめられ
絶望のふちにたつこと、頂点に立ち誇らしく思うこと、たくさんの財に
満たされ絶頂と思うこと、他の人の役に立って嬉しい満ち足りた
思いに満たされること・・・・。
たくさんの体験をするのは、人間だから。
もし肉体は幻想だとしたら、
あらゆる苦しみや幸福は消えてしまいます。
わからないままに生かされる人間。
「あれもそうなら これもそう。」
知花先生、飯島さんがにこやかに笑っています。