奥の院通信から R4 3/10 「ヒッグス博士の演説の続き」

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以下、ロバート・ヒッグス博士の演説の続きです。

 アメリカ軍は、イギリス海軍と協力して行動してきた大西洋で、ドイツのUボートを挑発することで、戦争を正当化できる事件を引き起こそうとしました。しかし、ヒットラーはその餌には食いつきませんでした。このため、ルーズベルト大統領は、アメリカ人の大多数が反対している、アメリカの本格的参戦を、実現する口実を失ってしまいました。

 1940年6月、タフト政権下で陸軍長官、フーバー政権下で国務長官を務めたヘンリー・スティムソンが、再び陸軍長官に就任しました。スティムソン長官は、親英的アメリカ北東部の上流階級の名士であり、日本人の友人ではありませんでした。支那大陸に対する「開放政策」を支持し、日本のアジア進出を妨害するための経済政策推進を支持しました。ヘンリー・モーゲンソウ財務長官とハロルド・イケス内務大臣も、この政策を積極的に支持しました。

 ルーズベルトは、制裁によって日本が米国に対して戦争を仕掛けるという軽率な間違いを犯し、同盟国ドイツも巻き込むことを期待していました。ルーズベルト政権は、日本が外交的に申し出てきた関係改善を冷たく退ける一方で、日本に対して益々厳しい経済制裁を課していきました。

 1933年、アメリカは日本との通商条約を一方的に打ち切りました。そして、1940年7月2日、ルーズベルトは「輸出管理法」に署名し、国防関連物資の輸出管理を強化しました。この法律により、7月31日、航空用燃料、潤滑油、鉄くずの輸出が制限されました。ルーズベルトは、日本を狙い撃ちする目的で、10月16日からイギリスと西半球諸国を除き、鉄くずと鉄鋼の輸出を全面禁止にしました。

 更に続いて、1941年7月26日、ルーズベルトは在米日系人の資産を凍結しました。こうして、日米の通商は実質的に消滅しました。その1週間後、ルーズベルトは、当時まだ日本が輸入することが出来ていた種類の石油も輸出禁止にしました。これに続き、イギリスとオランダも、東南アジアにある植民地からの日本への輸出を禁止しました。

 ルーズベルトの部下たちは、自分たちが日本をどうしようもない状況に追い込んでいること、日本政府が戦争によってこの締め付けから逃れようとする可能性があることを知っていました。日本政府の外交暗号は解読されていたので、アメリカの指導者たちは、豊田外相が7月31日に野村駐米大使に伝達した内容などを知っていました。

 そのメッセージの一部を紹介します。
 『米英を中心とする第3国と日本との間の通商関係は、極度に逼迫してきており、もうこれ以上耐えられない。従って、我が帝国はその命を守るために、南洋の原料を確保するための措置を講じなければならない』
 これは1941年7月末にアメリカの指導者たちが実際に目を通した日本の通信文で、彼らは日本が置かれている状況を完全に理解していました。

 アメリカの暗号学者は、日本の海軍暗号も解読していたので、アメリカの指導者たちは日本の攻撃が真珠湾を含むことを知っていていました。しかし、攻撃を回避したりせず、防禦の準備が出来る立場にあったハワイの司令官(キンメル将軍ら)には、この重要な情報を伝えなかったのです。ルーズベルトとその首脳陣が警告を発しなかったのも当然です。差し迫った日本の攻撃は、まさに彼らが長い間、求めていたものだったからです。

 スティムソン長官は、1941年11月25日の戦争会議の後、自身の日記に本音を書いています。『問題は、我々自身を余り危険に晒さずに、如何にして彼ら(日本)を操り、最初の1発を撃たせるかだった』 と。
 そして、真珠湾攻撃が起きた後には、彼はこう告白しています。
 『私の最初の感情は、危機が国民を団結させるような形で訪れてくれたという安堵感だった』

 長くなるので、このヒッグス博士の講演の続きは明日の通信で書きます。
 奥の院・ディープステートが如何に先の大戦を仕組んでいったかが良く分かる。彼らはアメリカ国民をも利用するために世界大戦を仕組んでいった。日本国民だけではなく、アメリカ国民も騙されて戦争に突入していったのであった。