致知出版社 一日一話 読めば心が熱くなる・・ 第二弾 7 「咲子はまだ生きていた」

藤原 咲子 高校教諭・エッセイスト

 病との戦いに奇跡的に打ち勝った母は、やがてその壮絶な引き上げ体験記「流れる星は生きている」を書き上げ、作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた暖かくて優しい母ではありませんでした。幼子三人の命を失うことなく引き揚げという苦境を乗り越え、成功者として社会から讃えられる母だったのです。私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。少しでも甘えようものなら「あんなに苦労して連れ帰ったのに、いつまでもわがままいうんじゃない」という言葉が返ってきました。

 お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?引き上げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、友達とうまく話すこともできず、学力でも兄たちに追いつけない私は、いつの間にかすべてに自信を失っていました。と同時に、私が生まれたことが母には不満だったのではないかと、様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。

 子どものころの私の楽しみは何よりも読書でした。図書部屋や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、本の世界に浸りました。しかし、母の「流れる星は生きている」だけは、どうしても手に取る勇気がありませんでした。幼い頃一体何があったのか。その疑問が説かれるのが恐かったからです。

 しかし、中学受験が間近に迫った十二歳のころ、そのストレスから逃げるように「流れる星は生きている」を読んでいる自分に気づきました。そしてその本の中で私のことを描写している数行を発見したのです。

 「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とはかぎらない」「咲子はまだ生きていた」

 ああ、やっぱりお母さんは私を愛していなかった・・・。一人の赤ん坊を犠牲にし、二人の兄を生かそうとしていたのです。これを読んだときはしばらく声を失い、呻き声をあげていました。たった数行が母の私への不信を生み出し、それから五十年もの間、母への反抗が続きました。

 私は火がついたように母に食って掛かり、母を責めるようになりました。母が涙を流し、「あんたなんか連れてこなきゃよかった」というまでいさかいは終わりませんでした。

 三年前の平成十五年、私は整理をしていた書庫から偶然にも「流れる・・」の初版本を見つけました。約五十年ぶりに茶色の木皮紋様のカバーを開くと、そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。

「お前は本当に赤ちゃんでした。早く大きくなってこの本を読んで頂戴、ほんとうによく大きくなってくれました。 母」

 現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、強く閉ざした私の心をひと突きにし、私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。十二歳の時に目に留まった「まだ咲子は生きていた」の一文は母の落胆ではなく、劣悪な状況下で健気に生きていた私への感動だったのだとこのときようやく気付いたのです。

 母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。