致知出版社 一日一話 読めば心が熱くなる・・ 第二弾 9 「お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか」

上月輝宗 永平寺監院

 母にとっては待ちに待った息子の戦地からの帰還です。何とか一目でいいからあわせてほしいと懇願し、やっとの思いで院長の許可を得ることができました。病棟に案内されると廊下のむこうから「わぁ!」という訳のわからない怒鳴り声が聞こえます。どうもその声は、自分の息子らしい。毎日陰膳を備えて無事を祈っていた自分の息子の声である。たまらなくなって、その怒鳴り声をたどって足早に病室に飛び込みます。するとそののベッドの上に置かれているのは、手足をとられ、包帯の中から口だけが覗いている”物体”。息子の影すらあません。声だけが息子です。「あぁ!」と母は息子に飛びついて、「敏春!敏春!」と叫ぶのですが、耳も目もない息子には通じません。それどころか、「うるさい!何するんだ!」といって、残された片腕で母親を払いのけようともがくのです。

何度読んでも、身体をゆすっても暴れるだけです。妹さんが「兄さん!兄さん!」と抱きついても、おじさんがやっても全然、受け付けません。三人はおいおい泣き、看護婦も、たまらずもらい泣きしました。何もわからない土井中尉はただわめき、どなっているばかりです。こんな悲惨な光景はありますまい。しばらくして、面会の時間を過ぎたことだし、「またいいことがあるでしょう。今日はもう帰りましょう」と院長が病室を出ると、妹さんとおじさんも泣きながら、それについて帰ります。しかし、お母さんは動こうとしない。どうするのか、見ていると、彼女はそばにあった椅子を指して看護婦にこういうのです。「すみません。この椅子を吊ってくださいませんか」

 そしてそれをベッドに近寄せるとお母さんはその上に乗るや、もろ肌脱いでお乳を出し、それをがガバット土井中尉の顔の包帯の裂け目から出ているその口へ、「敏春!」といって押し当てたのです。その瞬間どうでしょう。それまでわけのわからないことを怒鳴っていた土井中尉はとつぜん、ワーっと大声で泣きだしてしまった。そしてその残された右腕の人差し指でしきりに母親の顔を指で撫でまわして「お母さん!お母さんだな、お母さん、僕は家に帰って来たんか。家に帰って来たんか」とむしゃぶりついて話さない。母はもう口から出る言葉もありません。時間です。母は土井中尉の腕をしっかり握って、又来るよ、又来るよといって、帰っていきました。すると、どうでしょう。母と別れた土井中尉はそれからピタリと怒鳴ることをやめてしまいました。
その翌朝、看護婦がそばにいることがわかっていて、彼は静かに言いました。「ぼくは勝手なことばかり言って、申し訳なかった。これからは歌を作りたい。済まないが、それを書きとどめていただけますか」。その最初の歌が「見えざれば、母上の顔なでてみぬ ほほやわらかに 笑みていませる」。目が見えないので、お母さんの顔、この日本の指でさすってみた、そしたらお母さんの頬がやわらかでわらって見えるようであった。土井中尉の心の眼、心眼には母親の顔は豊かな、慈母観世音菩薩様のように映ったのに違いありません。