妹との別れ

7月30日午後11時30分、東京立川の
妹の御主人からの携帯電話が鳴りました。

「ああ妹が・・・」

この3か月の間に幾度も電話やメールで
「まだ生きる、やることがあるから」と
癌で手術したあとも気丈に話す妹を
激励していました。

「午後11時20分に・・・」

ご主人は続けられる。

何故だか心に深い悲しみが迫るわけでもないのは、
この3か月で妹がすでにどのような状態かは
心がすでに分かっていたからかもしれません。

関東地方は葬儀場がとても混んでいて
葬儀は1週間後の8月7日と決まり、
肉親で最後のお別れ、当然のことのように
前日の6日から伺うことに決めていました。

その後には一人でいるといつも妹を思うと
心に浮かぶ歌を口ずさんでいる自分を知ります。

「泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば幼い ふたりして 
故郷を捨てた 甲斐がない

遠いさびしい 日暮れの路で
泣いて叱った 兄さんの
涙の声を 忘れたか

・・・・・・・・・・」

幼い頃の窮乏の時代、母のものすごい優しさを
身に心に受けながら一緒に過ごした戦友とも
いえる妹だったのです。

妹は天真爛漫、いつも明るくて情にももろい。
そして友人の困りごとには親身になって
相談に乗り、自分に貯えがなくてもお金を
融通してしまう人でした。

そして口癖のように言う言葉が母への賛辞です。

「お母ちゃんって凄い人だったね。
メチャクチャ優しかったね。
絶対に怒らなかったね」

そんな人のいい妹はどこにいても人気者。
絶対に歌手になると、幼い頃からの夢を
相当の高齢になってから叶えてしまいました。
叶わない夢はないと証明した人でもありました。

30歳に近くなるころ、今の名古屋空港で
商品の販売の仕事をしていました。
ところが当時近くにあった豊山村の実家を
3か月もの間、行方知らずになったことがあるのです。

こちらはすでに結婚して、会社を新しく立ち上げて
まだ3年しかたっていない時でもありました。

実家に電話がなく、近くの焼き肉屋さんの電話を
お借りしての連絡手段を確保するような時代のこと。
そんな頃、母から妹のゆくえが分からないのでなんとか
出来ないかとの相談があったのです。

何気なくお得意様の社長さんにそのことを
お話する機会があり、
「どなたかご相談できるような方をご存知ありませんか?」と
口から言葉がついてでると、
「いつも懇意にしているお不動様が
人探し不動といわれているので、
そこに相談されたらいかがですか?」

渡りに船で、藁をもつかむ思い。
さっそく連絡を取り、うかがうことに。
そこは三重県菰野町にある床屋さん。
その裏手の家でお不動様をお祀りし毎月
一度護摩焚きを行っているとのこと。

変な宗教だったらちょっと・・。と思いながらも
そしてまさかと思いながらも見ていただく日が
来ました。
その方はかなりご高齢の女性。

「妹が失踪して3か月なんです」

「妹さんの生年月日を教えてください」

その後何か古い易のご本をペラペラとめくり
お返事をいただく。

「妹さんは大丈夫です。
明日電話させますから」

「???」

半信半疑ながらも、もしかしてとの期待が広がります。
他のことがらの相談にも間髪入れずお答えになる
おばあちゃんにただものではない気配を感じました。

さてその翌日ビックリ!!。

いつもお電話をお借りする焼肉屋さんに
妹から母へ電話が入り、今どこそこにいるから
心配しないでとのこと。

そのままこちらの会社に母からその旨の電話が
あり、「おばあちゃん本当だったんだ!」と
その人探し不動の霊験に驚く自分がいました。

結局その後旦那さんになるご主人のところに
押しかけ居候となって、ご主人は責任を
取られたのか、結婚へとの運びとなっていったのです。

その妹が体を離すことに・・・。

ライングループのメンバーAさんとSさんが
弥山に登山して5日宿泊予定の宿に着いていないと
天川神社の真ん前の民宿「井頭」さんから警察に
通報があって、そのことをやはりメンバーである
Sさんのお姉様から5日の21時56分にラインが
入りました。

さまざまなやり取りが深夜まで続き、お姉さまは
警察に捜索願いを出されました。

こちらはすごく迷いました。
「死んだ肉親の葬儀か、生かされてある人たちへの
援助か」難しい決断をこの幾星霜にはない体験として
与えられました。

「叔父さんに献杯をお願いします」

4日の日に甥っ子である息子さんから
依頼がありました。おしゃべりの自分は
2つ返事で承諾。

「明日の6日から捜索が始まる。7日の
葬儀に出てから、天川へ向かおう!」
最後の肉親の妹に弔意を捧げてからと
心が決めました。

6日の夜一度も訪問することのなかった
新築なった立川の家に到着。
妹はその日の夕方亡骸となって戻って
蒲団に横たわっていました。
隣の部屋ではちびっこ7人が大騒ぎです。

お線香と「般若心経」を捧げ、その夜は
辞去しました。

7日葬儀場で葬儀を済ませ、火葬場で
骨を拾い、再び葬儀場に戻っておときに。

そしてお約束の献杯です。

一通り、ご主人と妹の出会いそして生まれた
甥っ子と姪っ子の話題を語り、ここに集った
ご縁ある一族の出会いに感謝しました。
そして続けました、

「人間は2度死ぬと言われます。

一度目は肉体を離すとき。
そして2度目は人々の心から
忘れ去られる時です。
どうぞ愉快だった妹のことを忘れないでください。
時には思い出してあげてください」

その後、帰名。
そして8日待っているであろう、そしてきっと会えるであろう
お二人に会いに天川村へと向かいました。

捜索隊の警察の方々。消防署の方々そして
お二人の縁籍の方々と友人、先輩、会社の上司の方。

さまざまな立ち位置にある方々とのご縁を
賜りました。そして宿泊予定だった民宿
「井頭」のご夫婦とも。

登山後10日間の後の結果は、ご本人たちの
生命力とご縁ある方たち、そしてネット上の見知らぬ
方々の祈りと光と感謝の結果でしょうか、
お二人ともお元気であることをもって歓喜の
フィナーレをもたらしました。

全ての方々に深甚なる感謝を申し上げます。

ありがとうございました。

そして妹よさようなら ありがとう。