内山 興正 師
あなたが呼べば 私はこたえる
それは 私が 私にこたえるのである
世界についての情報を 私はきく
それは 私についての情報を
私がきくのである
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内山 興正 師の「仏道をならふというは自己をならふなり」
~正法眼蔵現成公案~
の書き出しである。
師はわたくしたちの存在を「思い固め」とよんだ。
思いが固まって できた私たちの体 心。
固まる前は かたちがないのだろうか。
あるところまで 生き永らえながら 進んで行くと
突然に まわりの現象が まぼろしのように
みえると 聴いた。
あらゆる現象に みずからの心が思いをだすことなく
今を 認識する境地。
無我の境地というものだろうか。
すぐ出る癖は かわいくもあるのだが。
あるがままは 思うがままとは異なるのだろうか。
思ったとうりの世界を 見るのだから。
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あなたが困っていることに
私が手を貸す
それは 私が困っていることに
私の手を貸すのである
私が 師にしたがって学ぶ
それは 私が
私にしたがって学ぶのである
そんな 何をとりあげても
自己でないものはない
生きた自己ぎりの自己をならうこと
それは 自受用三昧 仏道を
(じじゅゆうざんまい)
ならうことである
あすはわからぬ 人の一生
他をみて 我を知る のことわりどうり
我を知ることこそ
与えられた生への 恩返しかもしれない
神さえも 対象をまねがれないのだろうか
やっぱり この世は 我のみでしょうか
ありがとうございます