BOLIVI さんの 「御伽噺」

BOLIVIさんは沖縄在住。
名をあかさずこつこつと文字を打たれる。
彼のホームには宝石のような言葉がいっぱい。
「心身の神癒」「解脱の真理」「ヒマラヤ聖者の生活探究」
こんな書物が刻まれている。
そしてその他にこの「御伽噺」。
みなさんもどうぞお聞きください。
              M
平成16年10月28日(木)
~真理のエッセンス~
このお話は或る弟子(ステク)が先生から真理に関する実用的な将来への生活指針を教わったお話である。ステクが先生のところへ通い始めてから数ヶ月たった頃、ステクは先生から”蚊の征服法”に関する実用的な教訓を受けた。
ステクの家では、夜は蚊長をつるのが習慣だったが、困ったことに、このセランポールではこのような習慣は不名誉なこととされていた。しかも、蚊の数はおびただしかった。ステクは頭の上から足の先まで食われてしまった。
先生は同情して言われた「蚊長を買ってきなさい。ついでにわたしの分も一つ」そして笑いながら付け加えた「お前が自分の分だけ買うと、蚊がみんなわたしのほうに集まって来るからな」ステクはこの申し出にありがたく従った。


ステクがセランポールで泊まる晩はいつも、先生はステクに蚊長をつるよう命じられた。ある晩、例によって蚊の大群がわれわれを取り巻いていたが、師はステクにいつもの命令を出すのを忘れたのかそのまま寝てしまわれた。
ステクは蚊のうなり声を聞きながらいらいらしていた。そして床にはいると、飛びまわっている蚊に向かって和解の祈りを放送した。しかし三十分ほどたつと、ステクはついにたまりかねて、先生の注意を引くために、わざと大きな咳払いをした。
刺されたかゆみと、血に飢えて飛び狂う蚊のうなり声に、ステクは気が変になりそうだったからである。しかし先生は、何の反応も示されなかった。ステクはそっと先生のベッドに忍び寄ってみた。すると驚いたことに、先生は全然呼吸をしておられなかった。
ヨギの恍惚境に浸っておられる先生を目の当たりに見たのはこのときが初めてだった。「心臓が止まったのではないか!」ステクは先生の鼻の下に鏡を近づけてみた。鏡は全然曇らなかった。ステクはなおも確かめるために、先生の口と鼻の穴を指で数分間ふさいだ。からだは冷たく動かなかった。
ステクはぼう然として、助けを呼ぶためにドアの方へ行きかけた。「どうしたね、豆実験屋。わたしの鼻がかわいそうじゃないか」先生の声は笑いで揺れていた「ベッドへ戻りなさい。世界中がお前のために変わってくれるかね?お前自身を変えなさい。蚊の意識から抜け出すのだ」ステクはすごすごとベッドに戻った。
ところが、なんと蚊は一匹も寄ってこなくなった!ステクは、先生がステクに蚊長を買わせたのはただステクのためのみであったことを知った。先生自身は、蚊など全然気にしてはおられなかったのである。彼のヨギとしての能力は、蚊に刺さないように命ずることもできたであろうし、また、刺されても全く無害な意識の中に逃避することもできたであろう。
『先生はステクに実地教育をしてくれたのだ!これこそステクがヨギとして到達しなければならない境地だ』ステクは思った。真のヨギは、たえず自分に襲いかかる無数の感覚的刺激にわずらわされることなく超意識(神我〔キリスト〕)に入り、かつ、それを持続することができる。蚊のうなり声や暑さ寒さなど、もとより問題ではない。
ヨギはサマディ(とは、至福に満ちた超意識状態で、この状態にあるヨギは、個性化した自分の魂と宇宙意識との合一を経験する)の初めの段階で外界の感覚的刺激をすべて締めだし、かわりに、かのエデンの園よりもはるかに美しい内的世界の音や光景を楽しむのである(*五官を用いずに視聴嗅味触を知覚しうるヨギの普遍的超能力について、彼らは次のように書き残している「めしいにして真珠に穴を開け、指なくしてそれに糸を通し、くびなきにそれを掛け、口なくしてそれをたたう」)。
蚊(*蚊だけではなく、あらゆる感覚的刺激をもたらすもの)のおかげで、ステクはもう一つ別の訓練を受けた。ある穏やかなたそがれどき、ステクは古代の聖典に関する先生の比類なき注釈を聞いていた。先生の足もとに坐っていたステクの心は、平和そのものだった。
ところがそのとき、一匹の蚊がだしぬけにこの美しい田園詩の中に飛び込んで来て、ステクの注意を奪った。蚊がステクの太ももに毒針を突き刺したとき、ステクは思わず手をあげてそれを叩こうとした。『いや、待て』折しもステクの脳裡に、アヒムサー(非暴力)に関する言葉(*非暴力を完成せる者の前にはいかなる敵も〔人間以外の敵も〕なし)の一節が浮かんできた。
「やりかけた事を、何故終いまでやらないのだ」「先生!先生は殺生を奨励なさるのですか?」と尋ねた。「そうではない。しかしお前は、心の中ですでに蚊に致命傷を負わせてしまったではないか」「それはどういう意味でしょうか」「アヒムサー(非暴力)とは、殺そうという欲望を起こさないことをいうのだ」先生は、ステクの心の動きを、読み取っていた。
「この世は、アヒムサーを文字通りに実行するにはまことに不便に出来ている。人間は、有害な生き物を滅ぼすことを余儀なくされることもある。しかしながら、それらに対して怒りや憎しみを抱くことまで余儀なくされているわけではない。生命はいかなる形態を取ろうとも、この現世を生きる平等の権利をもっている。創造の神秘を悟った聖者は、無数の矛盾した現象にも調和して生きていくことができる。他を害そうとする感情を完全に克服した者は、この真理を理解することができるようになる。」
「先生、それでは野獣に襲われたときも、殺すよりはその餌食になれとおっしゃるのですか?」
「そうではない。人間の体は、神の創造物の中でも貴重なものだ。人間の体には独特の脳脊髄中枢があって、そのために生き物の中でも最も高度の進化価値を有している。それらの中枢の働きによって、修行を積んだ求道者は、至高の神性を把握しかつ表現することができるのである。下等動物のからだはそのようには造られていない。確かに生き物を殺すことは、それがどんなに小さな生き物でも、またどんなに余儀ない場合でも、多少の罪を残すことは免れない。しかし、人間の肉体生命をみだりに損傷することはカルマの法則に対する重大な侵犯であると聖典は教えている」
ステクはほっとしてため息をついた。だが聖典は、人間の自然本能をそのまま是認しているわけではないのである。ステクは、先生が豹や虎と対決したという話は聞いたことがないが、恐ろしいコブラを愛の力で征服された話を知っている。これはずっと後の話であるが、その対決はプリの海岸にある師の別荘の近くで起きた。
そのときそばに居た若い弟子のプラフラが、当時の模様をステクに語ってくれた。「僕たちはそのとき、僧院の近くの戸外に座っていました。するとそこへ一匹のコブラが現れたのです。それは一メートル以上もあるとてつもなく恐ろしいやつでした。おこったようにあの独特のかま首をいっぱいに膨らませて、僕たちの方に突進して来ました。
すると先生は、まるで子供でもあやすように蛇に笑いかけると、手拍子を打ちはじめたのです(*コブラは自分の届く範囲内にある動くものに素早く噛み付く習性があるので、コブラに近づかれたときは、じっと動かずにいることが唯一の安全策とされている。インドではコブラによる死者の数が年間五千人にも達しており、住民のコブラに対する恐怖は大変なものである)。
僕はこれを見てびっくりしてしまいました。この恐ろしい相手をこんなふうに歓迎するとは!僕は身動きもせずに見つめながら、心の中で一心に祈っていました。蛇は先生のすぐそばまで来ましたが、先生の愛の磁力に射すくめられたように全然動かなくなってしまいました。そして、やがて先生の足の間をすり抜けると、草むらの中に姿を消してしまったのです。
僕にはそのとき、先生がなぜコブラの目の前で手を動かすような危ないまねを平気でなさったのか、また、どうしてコブラがその手に噛み付かなかったのか、不思議でなりませんでした。しかし後になって、それは先生がどんな生き物に対しても、恐怖感を完全に克服しておられたからだということがわかりました」プラフラはこう言って話を結んだ。
静かな夜になると、先生は屡々貴重な講話をして下さった。ステクには、その一刻一刻が財宝のように感じられた。どの言葉にも英智が彫り込まれており、その表現法は、崇高な自信に満ちた独特のものであった。ステクは、そのような話し方をする人にはまだ他に出会ったことがない。
先生は自分の考えを、まず精巧な判断の秤にかけ、それからおもむろに口にされた。すると、真理のエッセンスが魂の香気のように流れ出て来て、周囲の者の体内にしみ透ってくるように感じられた。ステクは何時も、自分が生ける神の化身の面前に居ることを意識せずにはいられなかった。そしてその崇高な神性の前に、自然と頭が下がるのであった。
先生は、自分が無限の神の中に浸っていることを客にさとられると、急いで相手を会話に誘い込んだ。彼は、人前でポーズを取ったり内的世界に浸ってみせたりすることは好まなかった。神と常に一体だった彼は、特に霊交のための時間を必要としなかった。
完全な悟りに達した大師にとっては、瞑想という段階はもう過去のものなのである。「実を結ぶと花は落ちる」――聖者が屡々作法や形式を固守するのは、弟子達に範を示しているにすぎないのである。真夜中近くになると、先生は、子供のように無邪気に居眠りを始められることがある。
だが、別にあわててベッドの用意をする必要はなかった。いつも坐っておられる虎の皮の敷物のすぐ後ろに置いてある長椅子の上に、枕もせずに横になられるからである。哲学的議論に夜を明かすことも珍しくなかった。ステクの方に熱心な興味さえあれば、先生はいくらでも相手になってくれた。
そんなときステクは、疲れも知らず眠気も感じず、ただ先生の生きた言葉を聞いているだけで満足だった。「おお、もう夜が明けてしまった!ではガンジス河のほとりを歩こう」真理のエッセンスがそこら中に漂っていて、その香気を感じるのであった。徹夜の講義がこういう言葉で終わりを告げることも屡々あった。