光文書
(ヒカリモンジョ)
Vol.800+30+148
アークの蓋が開く日
日本列島に置かれていた、旧約聖書に記述されたアークと、日本の三種の神器の役割が、はっきりしたので、今回は、その報告です。
聖書の文化圏で、失われたアークとして、よく知られている、モーゼの石版と、アロンの杖と、マナの壺を収めた聖なる櫃。日本語では、聖櫃とも書きますが、この翻訳が正しかったようで、それは、自分のアークを見付けて、その蓋を開けることのできた人間には、生涯の糧を約束する、お櫃となるものだということが、このタイミングで人間界に伝達されることになりました。
これで、聖書があって、日本神話があって、「最終知識」が世に出て聖書の時代が終わるという、精神界のプログラムは完成することになりました。
この完成なくしては、最後の審判、または、その日、その時と約束されたことは起きようがなかったということです。また、なぜ、このタイミングでモーゼが復活し、四国の剣山に隠されていた情報としてのアークが、人間界に出てきたのかの理由もはっきりしました。
聖書の時代を生きてきた、人間のたましいには、このアークが、かごの中の鳥として、封印されてきたのです。それは、いまの日本に生まれている人間の運命ともいえるもので、聖書を知っているかどうかは関係がありません。聖書の神の約束は、やがて人間は必要にして充分なものを与えられて生きられる世に到るというものです。その必要にして、充分なものを得られるための用意が、ひとりひとりのたましいの奥に隠されている聖櫃、アークの中にあるのです。
アークを取り出しただけでは、その中味である、ひとりひとりとの神との契約と、それぞれの能力の開花と、糧となるものを得ることはできません。
その聖櫃の蓋を開けるためのノウハウが、実は日本神話の三種の神器であり、「最終知識」の知識だったのです。
どういうことかというと、三種の神器とされる、玉と鏡と剣というものは、「最終知識」の愛と勇気と正義という光の三位一体に対応しているのです。
物語として、人間には、愛と勇気は教えたが、神の正義だけは最後の最後に自分で見付けなければならないものというテーマが、「最終知識」には置かれています。
この正義という文字は、神の世界からいえば、聖義なのです。その聖なる義を行なうために、精神学を学ぶ人間には、あるタイミングで、光の剣が授けられてきました。
この授けられた光の剣を使って、この世の闇の処理をし続けた者のみが、このアークの蓋を開くことができるという契約があったのです。
聖書に記されているアークには、神の命令で、その蓋の上に向い合ったケルビムが、配されています。精神学を学んで、この世の闇と戦い続けたものは、この二人のケルビムの間に、神界から授けられた光の剣を差し込むことで、ケルビムが、その光の剣の働きの情報を読み取って、その蓋は自ら開き、その中味を、自らのものとすることができるという仕組みです。いまの日本列島上の日本人には、ひとりひとりが救世主となれる可能性があるということの背後には、このような地球の精神界の三千五百年に渡る用意があったということです。
これによって、一神教の文化圏によって、これまで形成されてきた世界の歴史を総括して、次の時空に移るための精神的エネルギー領域での準備が整うことになります。
この人間の世の富を追い求める時代が、これから終わりに向かいます。
富は、天に蓄えよという言葉が、まさに、現実となる世がはじまるのです。
その出発点に立つのが、二千二十五年の八月十五日からの日本であるということです。ひとりひとりが、神のアークを授けられて人間をしているということを知ったところから、次の世ははじまるのです。
神紀五年(二千二十五年)八月七日 積哲夫 記