伊路波村びとであるKさんから一冊の小冊子をいただいた。
著者は許文龍さん。許さんは、台湾の奇美実業というABS樹脂で
世界一の企業の理事長である。許さんは日本の台湾における植民地
政策は、西洋のそれとはまったく異なっていたことを、体験を混え
て多くの人々に語り続けている。
台湾に関する植民地経営の方法は、韓国でもそうであったように、
その国の根本を変化させる長期的な計画にもとづくものであったこと
がうかがえる。都市整備,教育,医療,農業,衛生などなど。
台湾統治時代、その国の国民のこと、そしてその国の行く末を案じ、
生命をかけて働いた多くの日本人たちがいた。
同じ時期「生命の光」の中に、その時代の物語記事が掲載された。
今も多くの台湾の人々に尊敬されている八田興一さんに関する記事だ
った。
「台湾を潤す八田ダム」
私が台湾の南部、台南県の
中央にある烏山頭水庫(ダム)
を訪れたのは、昨年の秋でした。
小高い六十メートルほどの丘
の上に着くと、静かな鏡のよう
な湖面が広がっていました。
丘と思っていたのは土でてきた
堰堤で、長さは約千三百メート
ルもあります。この烏山頭水庫は、
日本人技師・八田與一さんの名前
にちなんで、「八田ダム」と地元
の人々によばれています。
堤の上からは嘉南平野が見渡せ、遠くは霞んで見えません。その広さは
香川県と同じで、いまでは台湾一の穀倉地になっています。
台湾は、むかし日本が統治するまでの約四百年間、オランダや中国清王朝
の支配を受けましたが、積極的な開発はされませんでした。
たとえば、この嘉南平野の水田も「看天田」とよばれ、その年の天候に
左右されました。毎年、雨季には洪水に襲われ、田畑や家が流される。乾
季には干ばつになりやすく、せっかく育った作物も途中で枯れてしまう。
また、海岸近くに住む農民は、飲み水に不自由し、四、五時間もかけて水
汲みにいくという悲惨な生活を送っていました。そのような台湾を、日清
戦争で勝利した日本は、中国から譲りうけました。
台湾の人々は、日本人が来ても、それまでの統治者と同じだろうと思い
ました。しかし、そうでないことは、すぐにわかりました。
日本は日本国内と同じような、いやそれ以上の熱意をもって、台湾の開
発を始めたのです。
開発の基になるのは人です。そのために日本国は、政治、教育、土木など、
あらゆる分野に当時の一流の人物を数多く送りました。乃木希典、後藤新平、
新渡戸稲造などの指導者や、八田與一さんのような技師たちです。
八田さんは東京帝国大学の土木科を卒業すると、明治四十三年(1910年)
台湾の農地開発計画を任されます。二十四歳の時です。
四年の年月をかけて、台湾じゅうの山や谷、原野を歩いて、ダム建設地の
調査をします。赤痢やマラリアといった恐ろしい伝染病の潜む所にも、先頭
を切って分け入っていきました。
そして、現在の場所を選び、ダムを造って嘉南平野に水路を張りめぐらす
計画を立てました。皆、その計画書を見て驚きました。台湾総督府の予算の
六分の一の資金を必要としたのです。
「八田くん、これでは政府から、工事の許可がおりないぞ。もう少し縮小し
たらどうか」
「いいえ、水路のとどく場所と、とどかない場所の農民とでは、貧富の差が
生じます。私は、嘉南平野に住むすべての農民に、同じように水を引いてあ
げたいのです」
八田さんの熱意は総督府と日本政府を動かし、大正九年(1920年)に工事
が始まりました。
マラリアは猛威を振るっていました。そのため六百人に近い日本人兵士や、
乃木総督のお母さんも病死します。ダム工事現場で働く労働者も、例外では
ありませんでした。
八田さんは、原生林の広がる未開地で働く台湾人の労働者の健康を気づかい、
定期的に薬を配りました。しかし、彼らは副作用を嫌って飲みませんでした。
八田さんは1人ひとりを並ばせ、直接、口に丸薬を入れますが、みんなは後で
道に吐き捨て、道はあられが降ったようになったそうです。それを知ると、飛
んでいって叱りつけました。ついに最後には彼らの家の一軒一軒を訪ね、薬を
飲ませ、ちゃんと彼らが飲みこむまでは、その家を立ち去りませんでした。
そのおかげで、マラリアにかかる人は少なくなります。
三年目には、トンネルの工事でガス爆発が起きました。五十数名が亡くなり、
多くの重傷者が出ました。八田さんは、すぐに台湾人の犠牲者の家の一軒一軒を
回り、心から弔いと慰めの言葉を伝えました。遺族たちは、その言葉を押しいた
だくようにして声を上げて泣きました。
八田さんも責任を重くうけとめ、工事を中断しなければなりませんでした。
しかし、「八田さん、元気を出してやりましょう」と励ましたのは、台湾の人々
でした。八田さんがどんなに台湾を愛しているかを、知っていたからです。
こうして烏山頭水庫は東洋一のダムとして、十年の歳月をかけて、昭和五年に
できあがります。
そして、八田さんの望みどおり、網の目のように引かれた水路によって、水は
嘉南平野の全域にとどけられました。その水路の総延長は一万六千キロで、万里
の長城の六倍に達します。
完成後、八田さんはフィリピンの開発にいくことになりました。しかし、その
船が東シナ海でアメリカ軍に沈められ、五十七歳で亡くなります。昭和十七年の
ことです。
やがて戦争が終わると、日本人は台湾から引き揚げなければなりません。十六
歳で嫁いでから、喜びも悲しみも共にしてきた外代樹夫人は、ご主人が人生のす
べてを注いで愛した台湾と烏山頭を去ることができず、ダムの放水口に身を投げ
て、ご主人のあとを追いました。
八田さんご夫妻がささげた命は、一粒の麦のように三十倍、五十倍、百倍と
豊かに台湾に実っています。毎年、ダムが完成した五月八日になると、嘉南平野
の農家の人々が、収穫した農産物をもってダムを眺める丘の木陰に、おおぜい
集まってきます。そして、八田さんの銅像とご夫妻のお墓の前で感謝をささげて
います。
私は戦後生まれの者ですが、その墓前に立ったとき、胸に次の言葉が迫って
きました。
「八紘(あめのした)を掩いて宇(いえ)と為す」。すべての国々に分け隔て
なく天の慈しみを施し、一つの家のように為す、という言葉です。
台湾をめぐって、各地に八田さんと同じように、都市整備、衛生、教育、農業
に命をささげて尽くした日本人がいたことに驚きました。これらをなしたのは、
日本人の中に流れていた温かい精神であったことを知りました。
「生命之光」より