奥の院通信から R5 5/30 「フランス王朝破壊」

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 奥の院・ディープステートは1649年にイギリスのチャールズ一世を公開処刑し、イギリス王室を破壊しその支配権を奪取した。この時、奥の院はクロムウェルを使ってイギリス人の大虐殺を行ったが、これを清教徒革命と命名し、立派なことをしたことにした。革命という名の暴力(大虐殺・王殺し)がこの時始まった。

 オランダのウィレム3世のもとに、処刑されたチャールズ一世の娘メアリー2世を嫁がせ(政略結婚)、このウィレム三世の妃とした。そして、この2人をイギリス国王としたのである。
 こうして、イギリス王室の人事権は奥の院が握った。この時はさすがに、チャールズ一世との関係を保つために、ウィレム三世の妻でありチャールズ一世の娘メアリー二世の二人を王位に就け、夫婦2人共同王権とした。

 その後ジョージ一世が英国国王に迎えられる。彼はもともとハノーバー家であるから、この時イギリス王室はスチュアート朝からハノーバー朝(開祖はジョージ一世)に変わった。ジョージ一世はろくに英語も話せなかった。
 こうして以後、イギリスの王は全ては奥の院が決めている。多少の縁があるヨーロッパ王家の人物を適当に呼んできて国王として据えているのである。

 次に彼らのしたことは、大陸フランスのブルボン家ルイ王朝を壊すことであった。その計画はドイツのフランクフルトで練られた。そして、その計画を実施したのは彼らの打ち立てたイギリス王朝であった。

 1784年、奥の院のヴァイスハウプトがフランス革命を起こすことを命じる。そしてロベスピエールがその革命準備のために選ばれた。フランクフルトで作成された膨大な計画書がパリに運ばれる。しかし、その文書をパリに届ける使者が、その途中、ラティスボン(ドナウ河沿いの町)を通過中に雷に打たれて全員死去したのである。

 彼らの携えていた文書が警察の手に渡り、バヴァリア政府に提出された。バヴァリア政府はイルミナティ本部の強制捜査を命じ、世界革命運動の拡大化を示す証拠が押収され、フランス、英国、ポーランド、オーストリアおよびロシアの諸政府に、この革命の企てを知らせた。

 この時、世界革命運動全般についての詳細計画、その一環としてのフランス革命に関する詳細な指示を携え、急使がフランクフルトからパリに向かって馬を走らせていたのであった。
 そしてその指示は、ドイツのユダヤ人イルミナティからフランス大東社のフリーメーソン大棟梁に宛てたものであった。
 
 しかし、各国がそれに対する対策をとることはなかった。これら政府の権限よりも、革命を背後で操る奥の院の権力のほうが大きかったわけである。
 しかし、ルイ16世のもとに嫁いでいたマリー・アントワネットのもとには、母親のマリア・テレジアから「パリは危険だから帰って来なさい」と再三忠告された。しかしその都度、「お母さん、このパリは大丈夫だから安心して」と答えている。

 フランス大東社はオルレアン公ルイ・フィリップ2世が、ミラボーを介して革命のための地下組織として創設された。そして、このフランス大東社が中心となってフランス全土を暴力の巷としたのであった。フランス全土でユダヤ人によるフランス人大虐殺が行われた。

 この大虐殺は、短期間で手際よく実施された。計画が万全だったと言うことであろうか。国王ルイ16世、妃のマリー・アントワネットを始めとする王族、その政府役人、軍人などおよそ3万人がギロチンで殺害された。

 そして、同時にカトリックの聖職者もおよそ3万人が、教会に連行され、鉈で殴り殺された。ノートルダム寺院など血の海になったと言われている。

 来る日も来る日も、フランス全土で何百、何千というフランス人が殺害された。国家を運営している役人と、国家の権威を保っている聖職者を同時に皆殺しにしたのである。国家は権威と権力とによって成り立つ。従ってその双方を潰してしまったのである。こうしてユダヤ人はフランスという国家を潰してしまった。多くの血が流された。

 フランスという国は消滅し、奥の院フランスが今存在する。そして、その成立はフランス革命からと言うことにした。ここでもフランス人大虐殺をフランス革命として歴史を書き、大虐殺を革命という輝かしい歴史としている。彼らの行う大虐殺は、人殺しではなく革命とされる。