ここは、越後の国(今の新潟県)です。
激しく雨が降るなかを、ひとりの女の人が、
良寛和尚の庵を訪ねてまいりました。
良寛さんが迎えてみると、弟、由之(ゆうし)
の妻でした。
「こんな天気の悪い日に、わざわざ訪ねてく
るとは、よほどのわけがあるのだろう。さあ
さあ、お入りなさい」
と、話を聞いてみると…。
良寛さんの実家は、「橘や」(たちばなや)という名前の名主をつとめて
いました。良寛さんは、その長男として生まれましたが、十八歳のときに
出家し、家は弟の由之が継ぎました。
ところが、この弟の長男、馬之助(うまのすけ)が青年になるにつれ、酒の
味を覚え、昼間から仕事もせず、ぶらぶらと飲み歩くという、わがままぶり。
親がいくら注意しても、聞く耳をもたず、行く末が心配でならない、という
ことでした。
こんなわけで、考えに考えた末、由之の妻が、夫にも子供にも内緒で、良寛
さんに諫めてもらおうと、頼みに来たのでした。
良寛さんは、子供のころから、ことのほかかわいがっていた甥のこと、また
子を思う母親の心を気の毒に思い、頼みを聴き入れました。
ある日、そ知らぬ顔で実家を訪ねました。
久しぶりの良寛さんの訪れに、弟一家は
喜んで迎え入れました。珍しく馬之助も
家族と一緒になって、食事や酒を勧めま
したが良寛さんは、
「今日はすぐに帰らなければならないので」
と言って、杯を手に取りません。
由之の妻は、馬之助を叱るために好きな酒も
飲まないのだと、申し訳なく思いました。
しかし、良寛さんは小言をいうどころか、
この甥と話すのがうれしくてならないとい
うように、時のたつのも忘れて話しています。
そのうち日が暮れてしまいました。
「もうこんなに日が暮れてしまった。これでは山へは帰れないな。今夜は泊ま
っていこう」
良寛さんはそう言ってその晩は泊まりました。
次の日も、家族の者と世間話などをしているうちに、一日がたってしまい、も
う一晩、泊まっていくことになってしまいました。
由之の妻は、馬之助にいつになったら説教してもらえるのだろう、と心待ちに
していました。でも、自分から言い出すこともできずに、黙っていました。
二晩泊まって、ついにひと言の小言もいわず、
山に戻るあいさつをして良寛さんが、土間に
降り立ちました。
良寛さんは上がり框に腰をかけて、わらじを
はこうとしました。その時、うしろに座って
いる馬之助に、ふと、
「すまないが、わしのわらじの紐を結んでく
れないか」
と声をかけました。
馬之助は、今日に限って伯父さんは、おかしなことを言いつけると思いましたが、
すぐに「はい、はい」と返事をして土間に降り、わらじの紐を結びました。
と、襟首に、ポタリと温かいものが落ちてきました。何だろうと思って見上げて
みると、良寛さんの両の目いっぱいに涙があふれ、じっと馬之助を見つめています。
その良寛さんのまなざしを見た瞬間、馬之助の目から涙がほとばしり、良寛さんは、
そのまま何も言わずに山の庵に帰っていきました。
このことがあってから、馬之助は人が変わったように仕事に励んだということです。
生命之光 №610「良寛さんの逸話より」