宇宙意識(神)は音楽家(0)であると同時に音楽(1)である BOLIVIさん

平成16年4月18日(日)  BOLIVI
~宇宙意識(神)は音楽家(0)であると同時に音楽(1)である~
人はお互いに波長が合えば一語を発しなくても語り合うことができる。(痒いところに手がとどく)何時かそれを試してみれば自分でも驚く程深く会得することでしょう。その結果お互いの理解が一層深まり、愛の愛情も一層深まるでしょう。『会わねば愛しさやまさる』のも愛する者同志の送る想念が受信されるからである。
併し、それは人間同志間のことだけではなくて、動物、植物、鉱物の世界にまで至る。原子間の調和は生命の機能の基本法則、即ち愛を基礎とする。これはすべての被造物の底にある電磁原理という法則である。この原理は宇宙全体、この地球惑星だけではなく一切の創造り出された宇宙全体における基礎的な力である。


それは『窮極のもの』ではないが宇宙における運動である。この運動が目に見えない質料の原子(複数)を変性して目に見えるところのあらゆる形態にする。その際の精妙な伝導体が光子体(人の素)なのである。光子体の中で創造の青写真が造られ、運動(経験)が電子と原子を変性して形態を取らせる。
電磁力が活動している間中は常にこの光子体があらゆる形態物の基礎となる。この規則は全宇宙にあてはまる。何故ならば創造主は一柱(システムであり、プログラムである)、従って被造物も一つあるのみだからである。二者一体で別々ではない。故に、「1+1=”1”」であり、「1+5も”1”」であり、「1+10も”1”」であり、「1+宇宙も”1”」である。
その意味を明確に把握しての、「1+1=2」「2+2=4」「3+3=6」と云う、これからのこの世の学校教育のあり方にならなければ、いつまで経ってもこの世は闇である。(男性は一人で両性であり、女性も又、然りである。)つまり、創造主と非創造主とは一つなのである。光子体は創造する想念の伝導体であり、最も強力な働きをする。
何故なら宇宙はそれによって創造られたからである。故に、ある科学者は何もない宇宙空間からエネルギーが生まれていると云っている。人は誰であれ、己個人の願望を超える大きな力によって導かれていることを実感する人は、諸事遅からず早からずまさしく適切な時にやってくる事を知っている。
しかし、これは人間が考えるような宿命論ではなく、協力関係であり宇宙を築造しかつ統御し給う神の英智と智慧〔智慧は実際的なもの、英智はより深奥なもの〕、この力が人間自身の中にも実存することを知らねばならない。
何故ならば、神はその本性において無限なるが故に、人間は神御自身の意思によって森羅万象を導き、又、現し給う神の意識と智慧との生ける表現体であることを確知している事である。しかし、表現体はあくまでも表現体であり、実在ではないのである。真理はそのように創造られたものより偉大なものであることを知らなければならないのである。
世の中には真理を悟らんが為に多くの人達が山中に籠もって洞穴や又、海端に蟄居したり、一日中眉間に一心集中し、瞑想をしたからといって真理が解るものではない。又世間から出離したからといって解るものでもない。何故なら自分自身が世間だからです。独立というのはないのです。それは心の中だけで造り上げられたものであって、大きな幻影でしかないのです。
つまり、宇宙が未だ創造られてなかった頃、(すなわち、現在表現としてある宇宙を取り巻いている空間)其処には何もなかった。その状態は「無」・「空」の状態、未だ白紙の状態で何も書き込まれていない「0」(ゼロ)=嬰児の「脳」の状態。しかし、何もない状態から何かが生産されるという事はありえないことである。では何があったのでしょうか。
其処には、ありてあらゆるものの根源 『意識』 だけがあったのです。〔はじめに意識ありき〕意識は神一元の世界であり、その一元の中に全てはあって、その全ての中に意識(実在)は臨在し給うのである。このことを知るためには、あらゆるニセモノを把握し、見極め、そうして始めて『真実なるもの』が解るのです。
自分自身で偽りが解らなければ、誰も解らせてあげるということは出来ないのです。悟りは、ただの瞑想や暗示による信仰や、神秘的力で得られるものではなく、又、未来や過去において得られるわけのものでもないのです。何故なら過去は記憶であり、未来は恐怖の混じった希望にすぎないからです。
このようなものは一切心の仮作であって、真理は心を超えたものなのである。それが解った時真理を発見するでしょう。そうして始めて真理が本当にあなたのものになるのであって、他の人のものになるのではない。他の人のものをやってみた処でそれは真似事にすぎない。又ただの分析で真理が悟れるものでもない。
何故ならそれは過去をホジクルだけであり、解脱を得せしめる真理は過去に属するものではないからです。単なる分析の過程が偽りの過程であったことが解るとそれを放下してしまい、他の偽りの過程たち全部のように、あなたの心からは脱け落ちてしまう。あなたの心の中にあるのは死んだものばかりになってしまう。それは生きているものではない。
一方、真理はあらゆる瞬間において生き生きとし、水々しく生きている。真理は発見されるべきものであって、ただ単に信じるべきものでもなく、引用すべきものでもなく、心の中で造り上げるべきものでもないのである。生き生きと水々しく生きていること、それが真理である。悉皆は生命そのものであり生命のあらゆる瞬間々々を生きること、それが真理である。
このことを知るためには、あらゆるニセモノより解脱し、心情を愛で満たしつつ自からを警め、心は常に平安でいなければならない。大抵の人々は生々と水々しく生きてはいたがらない。彼らは寝て世間より逃避したがり、物事に直面をしたがらない。子供のように母親のエプロンの紐のうしろにかくれて嵐(諍い)をよけたがる。
一体嵐とは何か。つまるところそれは人間関係ではないか。あなたは各瞬間毎にこの関係を意識しなければならない。もし私があなたを家具でも扱うように扱えば、私たち二人の間には何の関係もない。しかしお互いに理解し合った時始めて本当の関係が生ずるのである。その時始めて自由があり得るのであり、自由の中にのみ真理は啓示されるのである。
もしあなたが、この人は愛するが他の人は嫌っているという場合、あなたは真理を知っていると主張できるでしょうか。あなたは親切であるが他の人には不親切であれば、あなたは親切な人と云えるでしょうか。これこそ矛盾の極みではないでしょうか?それはあなたが自分自身や、自分の想念や、動機、感情、願望と、その起こる原因と起こり方とをよく知らないからです。
小我から出てくるものを一切除き去って始めて真理が本当に解るものである。真理が自分の中で繁茂するのを妨げているのは、このようなニセモノだけである。あなたは自分自身の行為が真理に矛盾している場合、どうして真理を主張することができるのか。あなたがもし自分の体験なるものや、心の中にあるものによって左右されるならば、あなたは我の心を超えたものを顕現することはできないのです。
ただ、我の心の中にあるものだけしか表現できない。我の心の中にあるのはもともと真理ではないのです。もしあなたの行為があなた自身の体験から出てくるだけなら真理はあなたの中にはない。しかし、あなたの行為が隣人を自分のように愛することから起きるのであれば、あなたは真理を顕現するようになるでしょう。
あなたの知っている真理なるものが、あなたの見たもの、聞いたもの、読んだものの上に組み立てられたものであれば、それは上っ面だけのものになる事を、今、あなたは知らなければならない。真理を発見するに当たっては、あなたは自分の心の中を探り、ニセモノを見つけ出さなければならない。
あなたが我の心の中で育んでいるものはみな非真理なのである。あなたは一介の単なる蓄音器でレコードが変るだけにすぎない。あなた自身が、ただ人の音楽を聞くだけであってはならない。音楽家であると同時に音楽でなければならないのです。
つまり、真理は創造主であると同時に森羅万象(表現)そのものであるのです。要するに、デジタルの世界は、主(神)の創造された宇宙の象徴である。何故なら、デジタル世界のありてあらゆるものは「0」と「1」の組み合わせで創造られているからである。