致知出版社 一日一話 読めば心が熱くなる・・ 第二弾 13 「愛語の力」 

酒井 大岳 曹洞宗長徳寺住職

 私が県立女子校の書道講師として奉職間もない頃、小林文瑞という大先輩の先生がいました。小林先生は私のように僧籍を持ち、西田哲学や仏教思想に精通していました。百九十センチ近い大柄な方でしたが、一緒に食事をしていた時にこうおっしゃるのです。「酒井先生、「般若心経」というお経があるでしょう。きょうは一つ私にそれを説いてください」「それは無理です。読めと言われればすぐに読めますが、とても説くことなんか」「すると一瞬先生の表情が変わり、「馬鹿者!」と頭ごなしに私を怒鳴られるではないですか。「あなたは今日、私の隣の教室で授業をやっていたね。一人休んでいた子がいたでしょう。

名前はなんて言った?」「山田悦子(仮名)です。窓際から三番目の子です」「あなたは彼女がなんで休んでいるか知っていますか」「いいえ、風邪でもひいたんだろうかと・・・」
 その言葉が終わらないうちに再び雷が落ちました。「バカもの!生徒が一人休んでいたら担任のところに行ってなぜ休んでいるかを聞くのが役目ではないか」。
さらに先生はあなたに「般若心経」が説けなかったら、私が教えてやる。ついてきなさい」。そうおっしゃったかと思うや、もう歩き出され、しばらく経ったところで、「あのな、山田悦子は腎臓を悪くしてこの先の病院に入院しているんだ。これから見舞いだ」。
 彼女の部屋は二階の奥まったところにありました。小林先生は病室に入ると、笑顔で挨拶をかわし静かに話始められました。「えっちゃんな。今日酒井先生が君の教室で授業中に歌を歌っていた。俺は隣の教師で聞いていたんだけど、酒井先生はえっちゃんがどんな病気で入院してるか知らなかったそうだ。俺が酒井先生に頼んでその歌を歌ってもらうからな。よーく聞いていろや」私が歌ったのは、その頃農家を励ますために流れていた田園ソングでした。二番くらいから山田は蒲団を引っ被って泣いていました。声は出さなくても肩が震えているからそれとわかるのです。三番まで歌い終わると「ありがとうございました」と小さな声がしました。「よかったな、えっちゃん。これであと一週間もすると治って退院できるよ。じゃあな」。そう言って先生は部屋を出られました。病院を出て別れ際に小林先生が両手で私の手をしっかり握り、大きく揺さぶられました。そして満面の笑顔で「これが「般若心経」だよ。覚えておきなさい」。私は小林先生がおっしゃった意味が解りませんでした。しかしある時、ふと「仏教で大切なのは理屈ではなく実践なのではないか」「いまできることを精一杯やることが人生で大切ではないのか」と思ったのです。それから私は「般若心経」に関する本を、三百冊以上むさぼるように読みました。驚くことに、小林先生の教えにすべて帰着していました。理屈ではなく歩み続けることこそがその真髄だったのです。ちなみに、山田悦子は奇跡的な回復を遂げ、先生の言葉どおり一週間後に無事退院しました。私には愛語の力を知る忘れられない思い出の一つです。