1,無明 即ち、無知盲目の為に、真理を真理と見ず、煩悩を起こし、それに縁って、
2,行 即ち、真理に背き、道理に反する行いを生ずる、この無明より起る根本の盲目的活動を余儀なくされる。これに縁って、
3,識 即ち、無明と行に縁って、まず母体に宿る我々に、精神的作用、主観が起る。これに縁って、
4,名色 即ち、心的現象、物的現象の霊肉が、母体で備わること、精神的作用、これに縁って、
5,六処(六入)
即ち、眼耳鼻舌身意の、六根が母体内で完全に出来、出胎(生まれ出る)までをいう。それに縁って、
6,蝕 即ち、六根に対する、色声香蝕法の六塵を知り、それに縁って、
7,受 即ち、やや長じて、六根の六塵に対する嗜好を感じ始める。それに縁って、
8,愛 即ち、好きなものを求め、嫌いなものを避けようとする欲望。それに縁って、
9、取 即ち、愛欲の念が次第に烈しくなり、嫌いなものを徹底して排斥し、愛するものを求め、執着することである。それに縁って、
10、有 即ち、愛・取の時代になす行為が、未来の因となり、次生に行く所の定まることである、それに縁って、
11、生 即ち、過去の因により、賢愚美醜、幸不幸まですべて定まり、種々の結果が生まれてくること。それに縁って、
12,老死 生があれば、必ず老い衰えて死んでいく。
この世に生存することによって伴う一切の憂悲苦悩・有為転変に縁り、生死流転の輪廻を繰り返し、解脱することを得ない。
即ち、抜け出ることができないでいる。
生死の流転輪廻は、無明の煩悩が、根本の原因である。ゆえに、無明の煩悩を滅すれば、すべてが消滅する。無明とは「明らかなること無し」即ち、すべての物事について暗いということである。無知とはいっても、ただ単に知らないというのではなく、知っていても、如何とも
し難いことである。例えば、「酒やタバコは体に悪いと知っていても、どうしても止められない」とういうが如きものである。その煩悩の大将が「貪欲・瞋痴・愚痴」である。煩悩は数限りない。悪いと解っていても、我々凡夫にとって、消滅するのは無理である。
親鸞聖人ですら、
「悲しき哉、愚禿親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証之証に近づく事を
快(たの)しまざることを、愧ず(はず)可し、傷む可しとや」
と、煩悩を断とうとしても、次から次から、泉のごとく湧き出る煩悩を捨てきることができないでいる。「恥ずべき、傷むべきことである」と言われています。況や、我々凡夫が断ち切れる筈がない。拭い去ろうとしても間断なく浮かび上がってくるのが「無明の煩悩」である。
「佛の教えは無明の闇の奥深くを照らす光である。無明の闇のあるところが、即ち佛の教えのある処である。
無明のやみは無明なるがゆえに、佛の教えを知らぬのである。しかし、またおもうに、無明であるがゆえに、切実に佛の教えを必要としているのである。佛の教えによって、無明が無明と知られるのである。
そこから、無明のやみの、ほのかな光がさしてくる」
つまり、「煩悩即菩提」で、無明の煩悩がある故に、佛の教えがあり、佛の教えを求める心が生じるのである。
つづく・・・鈴木大拙 天皇講義・・・