3327「させてくださって、ありがとう」2024.2.4 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年01月23日の記事を紹介します。

「させてくださって、ありがとう」

不動明王(ふどうみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、

密教特有の尊格である明王の一尊。

日本では一番親しまれている神様かもしれません。

不動明王は大日如来の化身とも言われ、また五大明王の中心となる明王でもあります。

真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。とのこと。

またお不動様のお姿は、

奉仕をする心の大切さを私たちに教えるため、奴僕の姿になっているそうです。

奴僕とは召使(めしつかい)を意味する言葉で、献身的に他者に奉仕する者を指します。

お不動さまは、あらゆる人びとを苦しみから悟りの世界へ救い導くために、

青黒色の肌をした奴僕の御姿となって、私たちを御加護くださっているのだそうです。

今日は、お不動様のお力の一つである、この「奉仕の精神」について書きたいと思います。

何事にもよらず、人に何かをしてあげる・・ のではなく、

何かをさせていただく、という精神は尊いものです。

・人のために汗水流し、時間を費やすことは、自分にとって損なことだ。

・何々してあげたのに、何の感謝もお礼もない。私を特別扱いしてくれない

そんな考え方の人が居る一方、

人さまに奉仕することは、天上に貯金を積むこと、徳を積むことに繋がる

人が喜ぶだけでなく、巡り巡って多くの人を幸せにして戻ってくる

そんな風に考える人もいます。

このことに関して、ブッダのお話をご紹介します。

「させてくださって、ありがとう」というお話です。

小林正観さんのお話より、ご紹介します。

<引用開始>

ブッダを取り巻く集団(サンガと呼びます)は、当時できるかぎり自分でできることは自分でやり、どうしても自分ではできないことを他人にやってもらうという形をとっていました。

ブッダを取り巻く集団では、何か人に頼むとき、こういう呼びかけをしていたらしいのです。

「誰か、私に施しをし功徳(くどく)を積んで、幸せになりたい人はいませんか」

誰かに「施し」をすることは、

「他人のため」ではなく、「自分のため」であったというのは驚くべきことです。

当時のブッダの集団は、小さな布切れを拾ってきてはそれを縫い合わせ、それぞれの人の衣にしていました。

あるとき目が見えなくなった弟子が、布切れを縫い合わせて衣を作ろうとしました。

しかし、まず最初のことである、「針に糸を通す」ことができません。

彼は、大きな声で、「どなたか、私に施しをし功徳を積んで、幸せになりたい方はいませんか」と周りの人に呼びかけました。

すると目の前を通りかかったらしいある人が、「私にやらせてほしい」と言いました。

「えっ、その声はお師匠様ではありませんか」

ブッダが、ちょうどその弟子の前を通りかかったのでした。

「それはそれは、大変、失礼なことを申しました。

お師匠様にそんなお願いをするわけには参りません。

今の言葉はお聞き流しください」と、その弟子は言ったそうです。

まさか、ちょうどブッダが通りかかるとは思っていなかったでしょう。

慌てて驚き、恐縮した気持ちは理解できます。

弟子から「そんな大それた」と言われたブッダは、その時こう言いました。

「なぜだ、なぜ私ではいけないのか。私だって幸せになりたいのだ。

私だって、もっと幸せになりたい」

ブッダは、ありとあらゆる執着を離れることができ、すべての苦悩・煩悩から“解脱”した方です。

何も悩みはなく、十分に幸せになっていた人でした。

その人が、「私も幸せになりたい」と言ったというのです。

なんと素敵な一言でしょう。

「幸せになりたい方はいませんか」という呼びかけは、

「私」だけでなく、周りの沢山の人を「幸せ」にしていくようです。

何かをしてもらって「ありがとう」と言うのは、「ありがとう」の言霊の凄さの

半分くらいしか使っていないのかもしれません。

「ありがとう」は、してもらった時だけでなく、こちらがしてあげた時、させていただいた時にも使えるのです。

させてくださって、ありがとう、人のためではなく、自分からしてあげることで 、沢山の「ありがとう」(させてくださって、ありがとう)を言うことができるというのは、何とも楽しいことではありませんか。

<引用終了>

今の今、悩み苦しみ、悲しみの最中にある方にとって、人のために、何かを「させていただく」ことは、非常に難しいことかもしれません。

自分のことで精一杯ですから。

ですが、そういう時こそ、一旦、自分の悩み苦しみ、悲しみを、かたわらに置いておき、

周りの人々を見渡し、誰かのために、自分に何かできることはないか、探してみてください。

神様は絶対に、その姿、心を見ています。

それこそが、悩み、苦しみ、悲しみからの脱却の早道だからです。

もし、1年前の悩み、苦しみを正確に覚えていらっしゃる方がいらしたら・・

その悩みや苦しみは、365日、24時間、ずっと続くものでしたか?

・時には忘れることはなかったですか?

・時には笑顔になることはなかったですか?

・延々と続く、どん底の状態だけでしたか?

そういった類の苦しみは、まさに人生の中に組み込まれたエポック(引き金)です。

それを起点として、ぐるっと人生を変化させるためのものです。

何のために、神様はその苦しみを人生に組み込んだのか?

生きている間はわからないかもしれませんが、少なくとも、生まれる前に、神様と計画してきた出来事は、生死を超えて意味を持ちます。

・生きる、死ぬ

・健康、病気

・富む時、貧困の時

・出会い、分かれ

・苦しみ、楽しみ

・悲しみ、喜び

人間側にとっては、どれも一大事ですが、それらは神様の目や、生まれる前の魂としての自分自身から見たら、単なる舞台装置でしかありません。

それらを利用して、人間に神仕組みのドラマを演じさせます。

そしてドラマを通じ、魂を磨き、輝かせようとします。

そうであるならば、悩み、苦しみ、悲しみの中にあろうと、

・流れる状況、環境に身を任せ、

・置かれた環境の中で

そんな中でも、周りの人々を見渡し、誰かのために、自分でも、何かできることはないか、

やってみても良いかもしれません。

今は目の前の、できることを精一杯するしかありません。

諸行無常ではないですが、どんな状況も固定化して、永遠に変わらないことなど存在しないからです。

どんな状況も 目には見えなくとも、

・少しづつ変化しています。

・少しづつ状況は変わっています。

地球は、そのような作りになっています。

神様が魂の進化のために、そうお創りになりました。

それであれば、「させてくださって、ありがとう」と感謝の気持ちで言える自分でありたいものですね。

その心の方向性こそが、明日からの状況の変化の方向を決め、運命を導くものだからです。

どなたかにした親切な行いは、巡り巡って、いつか自分が親切にされるという現象として帰ってきます。

誰かを幸せな気持ちにさせてあげれば、いつか自分も誰かに幸せな気持ちを分けていただけます。

この宇宙に存在するものは、全て繋がっています。人体と同じです。

一つ一つの細胞は、一人一人の人間は、それぞれ独自の役割、個性を持っており、それらが助け合い、連携することで、調和して維持され、進化していくことが可能になります。 

一つとして、誰一人として、無駄なものはありません。

神さまは決して無駄なものを創造しませんから。

みんな大切なものです。

「俺が俺が」、「私が私が」ではなく、周りの方、みんなを大切に思い、お互いの個性を否定せず認め、

お互いさまの心、随神の道(かんながらのみち)を歩んで行きたいものですね。

そのような心持こそが、ご自分自身が、幸せに生きて行くための王道であり、秘訣なのですから。