4216「青空ひろば」2026.4.3 自分で自分を自分するから

4216「青空ひろば」2026.4.3
今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新の記事を紹介します。

1684 2026.02.22

自分探しの旅に出て、何万キロ歩いても、結局、自分は自分に戻る。

でも、歩き廻って、苦労して描いた、ハートの面積の広さが、

人に対するやさしさの、元手(もとで)となる。

(茶話)

大敬ぐらいフラフラ寄り道人生をたどった人はいないでしょう。

若い頃は、まっしぐらに出世街道を進んでいる学友の活躍ぶりを聞いて、うらやましくなったり、落ち込んだりしたものです。

でも、今となって振り返って見ると、そんなエリートコースを進んだ人に比べて、ウロウロ寄り道して描いた面積の広さが、人に対する思いやりの気持ちの深さやつらい立場で悩んでいる人に対する導きの智慧になっているように思うのです。

若い頃に苦労した方が奥行きと深みのある人物に育つようですね。

1683 2026.02.21

<根っこは自分を受け入れ、許すこと>

自分の弱さを知っているから、人の弱さが思いやれる。

自分の弱さを受け入れ、許せるようになったら、

人の弱さが、許せるようになる。

(茶話)

若い頃は自分が大嫌いでした。それが根っこにあるので、世間の人や世界も嫌いでした。

悪戦苦闘の末に、次第次第に自分と和解出来るようになり、そんな弱い自分を否定しないで、そのまま受け入れ、許し、抱擁出来るようになってきました。

それにつれて、人の弱さや弱さからくる強がりも見えてくるようになり、ヨシヨシとそのまま抱擁出来るようになってきました。

思いやり、許しの精神の根っこは、やはり「自己受容」、「自己肯定」なのです。その「自己受容」、「自己肯定」が「他者受容」、「他者肯定」へ、さらに「世界受容」、「世界肯定」になってゆくのです。

1682 2026.02.20

<大木はゆっくり育つのです>

あせっていませんか?

本物はゆっくり育つのです。若い頃は日の目を見なくても、

歳をとるほど 評価され、実り豊かになってくるのが、本物である証拠です 

(茶話)

大敬は45歳で社会に復帰しました。その頃の妻は「あなたは人より最低20年は遅れているわねえ」と嘆いていました。

そして、同世代の人が第一線から引退している今、私は77歳で第一線でバリバリ活動しています。人より20年遅れたので、今が丁度57歳ぐらいの感じがします。

妥協せずに本気で道を求めて歩いていれば、初めは孤独で、浮かばれなくても、次第に道が広がり、一緒ににぎやかに同道してくださる仲間が増えてくるのです。若い頃はにぎやかに生きていたが、晩年は淋しく生きるより、若い頃は孤独でも、晩年はにぎやかな方がいいと思いませんか?

1681 2026.02.19

<出来ることを精一杯>

出来ないことを、数え上げていないで、こんな私でも出来ることがある。

そのことに感謝して、誠実に取り組んでゆく。

そんな生き方が、しあわせ招く生き方。

(茶話)

戦場で敵と戦っている時に、『この武器もない、あの武器もない』と愚痴をこぼしていてもしょうがありません。

そんなヒマがあれば、智慧を働かせて、持てる武器をフルに活用して敵と戦う工夫をするのです。そうすれば、勝機が見えてくるかも知れません。

人は、どの人も「出来ることと出来ないこと」の束です。

大敬はなぜか聖典の解釈をして皆さんにお話ししたりすることは出来ますが、人付き合いも下手だし、お金の計算などさっぱり出来ません。そのように、人によってそれぞれ「発達凸凹」なのです。

自分に欠けたところばかり見て嘆き悲しんでいるヒマがあったら、自分に出来ることで世の中に貢献すればいいのです(船井幸雄先生がおっしゃっていた「長所伸展法」ですね)。そうすれば、いつの間にか、イノチの可能性の領域が拡大して、気づいてみればこれまで出来なかったことが少しは出来るようになっていて驚くことになります。

1680 2026.02.17

<苦しい時は、人生の上り坂>

苦しい時、辛い時 僕の人生もようやく上り坂にさしかかったぞと喜ぼう

楽チン人生続く時 人生の下り坂にせぬよう気をつけよう

(茶話)

三十歳前後、この頃の大敬が人生で一番辛かった時期です。禅の道場を出て、職はないし、人生の先の見通しがつかないし、ツラくて、ツラくて、どうしょうもありませんでした。

その頃、角倉老師について修行していたんですが、老師に参禅した時に、「スッキリしたいい顔になってきたよ。ずいぶん進歩したねえ。よかった、よかった」とおっしゃいました。

大敬は『ウソやろう』と腹が立ちました。『老師はちっともボクの苦しみを察してくれない。結局、東大を一番で卒業して、高級官僚やってたような人に、ボクみたいな、はみ出し者、劣等生の気持ちなんか分かるはずはない』と、恨めしかったものです。

しかし、この歳になって思い返してみるに、あの頃が一番、大敬の魂の進化が捗っていた時期だったんだなあと思います。

あの頃の逆境の一時期がなければ、今の大敬はきっとなかったはずです。

その当時の老師のコトバは、ウソではなかったのです。本当だったのです。本当に有難い師でした。

1679 2026.02.16

<釈迦もイエスもみんな私>

AさんもB君も、実は君なんだから、AさんにできることはAさんに任せ

B君にできることはB君に任せて、君は心置きなく『君』していればいいのだよ

(茶話)

昔、唐の国に薬山禅師という方がいらっしゃいました。その頃は、禅なんて流行ってなかったのです。禅専門の道場なんてどこにもなくて、他宗の寺に間借りして修行していた、そんな時代です。

薬山さんは、ある村の村長さんから牛小屋を貰って、それを道場にして弟子を指導していました。そのうち、集まった弟子の人数が二十人ほどになったそうです。

さらに、事務的な仕事が出来る有能な僧がやってきました。そこで、かれを院主(事務長)にしました。そうすると、だんだんやって来る信者や修行僧が増えだして、ついに四、五十人になりました。

道場が手狭になって、もう牛小屋の道場に、全員を収容出来ません。

そこで、山の上に小屋を建てて、薬山さんは、そこに移ってもらったのです。

新米の僧や信者も多くなったので、事務長は薬山さんにガイダンスしてくださいとお願いしました。薬山さんは面倒がって、やる気がありません。何度もお願いして漸くオーケーが得られたのです。

事務長も弟子達も大喜びで、ジャンジャン鐘を鳴らして、全員がゾロゾロ山頂の薬山さんの小屋目指して登ってきました。ところが、薬山さんは小屋の門を閉じて、誰も入らせないんです。事務長が言います。「ガイダンスしてやると許してくれたではないですか。ウソをつかれたのですか」

すると、薬山さんは言いました。「経には経の教師が居る。論には論の先生が居る。ワシはワシだ。君らはワシのどこが気にくわんのか」

頭がいい人には、頭の仕事してもらったらいい。体力ある人には体力で勝負してもらったらいい。私は私だし、君は君ではないか。みんな<ひとついのち>で、それぞれ分業です。親指は親指、中指は中指、それぞれ分担があって、全体のいのちが生きるのです。

1678 2026.02.15

<失敗は成長の素>

失敗を恐れず踏み出してゆこう。成功することが人生の目的ではないのだから。

失敗を通してしか学べないことが沢山あるのだから

(茶話)

成功が続いたら心配です。怖いことです。

成功ばっかりしていたら、失敗することがドンドン怖くなります。

そうしたら、失敗しないように、失敗しないようにと、人生の歩幅がますます狭くなります。危険のない安全な道ばっかり選ぶようになります。

そのように、わざわざ自分で自分のいのちに枠を被せて、狭いところに閉じ込もるようになります。空気が悪いし、明かりも入らないし、ジトジト湿るし、いのちはどんより曇るし、ちっともいいことがありません。

成功したら、お金や、地位や、名声や、ドンドン貯まります。それらがドンドンお荷物になって来ます。それら担いで、一歩、一歩がしんどくなります。

それらはみんな幻想です。本当は貯まるものなんて、少しもナイのです。

世界は一瞬、一瞬途切れています。一瞬、一瞬、生まれ変わっているのです。

一瞬、一瞬ご破算で、一瞬、一瞬オギャーと新生しているのです。

そうだからこそ、人生は面白い。人生は素晴らしい。人生は楽しい。次々、新発見があります。次々新体験があります。いつも赤ちゃんのマッサラな眼と肌で世界を体験するのです。

とりあえず、失敗覚悟で思い切って一歩踏み出してみましょう。スキーの練習と一緒です。はじめに眼一杯ひっくり返っておいたら、もうひっくり返ることが怖くなくなります。そうしたら、恐れないで、思い切って滑れるようになります。そうなってはじめてワザがドンドン上達するようになるのです。成功ばっかりしているというのは、ちっともいいことではないのです。

1677 2026.02.14

<君は君>

七回転んでも 起きるまでもなく 君は君さ

(茶話)

人が何と言おうが、<あなた>は<あなた>です。

誰が笑おうが、世界中の人がけなそうが、<あなた>が<あなた>であることは揺るがないし、<あなた>が<あなた>であることをやめたらいけないんです。

<あなた>が<あなた>に自信なくして、別の自分になろうと悪あがきするからダメになるのです。

法眼禅師に慧超という修行僧が質問しました。「仏とはどんなもんですか」

法眼さんは答えました。「汝は是れ慧超(君は慧超ではないか)」

つまり、<あなた>が今の自分から脱走したいと悪あがきしないで、今の<あなた>にしっかり落ち着けたところが『仏』なんです。

モーゼの前に現われた神さまは「アイ アム ザット アイ アム」と言われたそうです。これは平たく言うと「私は私だ」と言われたのです。その<私>は『アム』でしょう。『ワズ』(過去形)でもないし、『ウィル ビー』(未来形)でもなく、現在形の<私>でしょう。すっ転んだら、すっ転んだ今のままの<私>だし、泣いていたら泣いている今のままの<私>でしょう。

『そうだ、<私>は<私>だったんだ』と気づいたところが、仏様なんですね。

ですから、泣いている仏さんもいらっしゃるし、怒っている仏さんもいらっしゃるのです。

1676 <一生1ミリ前進> 

一生のうちに仕上げよう、などと思ってはいけない

はるか限りないいのちの進化の道行で、一生にできるのは、ただの一歩の前進のみ。

おシャカさまでも君でも同じこと

(茶話)

まあ、そういうことですね。ちっとも焦らなくていいのです。息長い、遠い、遠いはるかな旅路なんですからね。

この一生で何も出来なくても問題ないのです。とりあえず『僕はきっと、いつに世か、ひとついのちにゴールインするのだ』と分かって死ねたらそれでオーケーなんです。

それさえ分かっていたら、いつの世からか、ゴールに向けて一歩踏み出せる日もくるでしょう。その時から歩み始めたらそれでいいのです。

ということは、別に来世を待つ必要もないんですね。八十九歳のある日に、ふとこれから学ぼうと思いついたとしても「もう遅い」なんてことはないんです。そのそこから歩み始めたらいいのです。次の日に死んだとしてもそれでいいのです。つぎの世でその次の一歩を再開したらいいのですから。